伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

弓の間に展示された食器がテーブルに化ける

『バッキンガム』P.45:
隅には一七六三年と刻印されたチェルシーのアトリエ、メクレンブルグ・ストリッツ(原文ママ)のテーブルが置かれている。
Meyer-Stabley原本:
Dans des niches aux quatre coins figure le service de table Mecklenbourg-Strelitz, typique de l'atelier de Chelsea et datant de 1763.
Telperion訳:
四隅のニッチには、メクレンブルク=シュトレーリッツの食器セットがある。チェルシーの工房に典型的なもので、1763年にさかのぼる。

バッキンガム宮殿1階の弓の間(英名は"The Bow Room"、Meyer-Stableyによる表記は"la bow-room")の説明から。

仏文和訳で分かること

1. 話題の品はニッチの中にある

新倉真由美が単に「隅には」とした部分に当たる原文は、"Dans des niches aux quatre coins"(四隅にあるニッチの中には)。日本語でニッチといえば、「ニッチな産業」などのように、メジャーでない分野を指して使われることが多い。しかしニッチの本来の意味は、物を飾るために壁に掘られたくぼみ。「壁龕」というものものしい訳語もある。

2. 話題の品はテーブルで使う品

新倉真由美が単に「テーブル」とした部分に当たる原文は、"le service de table"。ニッチの中にある以上、テーブルではない。ミニチュアのテーブルならニッチに入るが、それならそうと説明するだろう。

フランス語でもserviceの主要な意味は「サービス、奉仕」だが、ここでのserviceはニッチに置ける物でなければならない。この条件を満たす意味は、プログレッシブ仏和辞典第2版にはこうある。

(食器、茶器などの)セット; (ナプキン、テーブルクロスなどの)一そろい.

いくら高級品でもナプキンを飾るとは考えにくいので、食器だろうと想像はできる。でもそれを確認するのは仏和辞書の範囲外なので、後に回す。

3. 制作年が刻印されたとは限らない

新倉真由美が「一七六三年と刻印された」と訳した"datant de 1763"は、「1763年にさかのぼる、1973年に始まる」。datantは現在分詞で、動詞の原形はdater。単に誕生した時を述べている。

英国王室コレクションサイトから分かること

1. 話題の品は食器セット

英国王室が所有する高級品は、英国王室コレクションサイトで調べるのが一番手っ取り早い。新倉本の巻末には、原本由来と思われるいくつもの英国王室関連サイトのURLがあり、私の記憶ではコレクションサイトもあったはず。

キーワードMecklenburg(スペルは英語風に直した)とserviceでコレクションを検索すると、いろいろな食器の説明が出てくる。"service de table"はこれらのことだろう。Mecklenburgの食器全般の説明ページのリンクを貼っておく。

The 'Mecklenburg' dinner and dessert service

2. メクレンブルク=シュトレーリッツは工房ではない

上のリンクにある説明文から、参考になる部分を抜き出してみる。

  • 制作したのはChelsea Porcelain Works。日本では「チェルシー磁器工房」という名前が定着しているくらい有名らしい。
  • 食器はシャーロット王妃が兄弟のメクレンブルク=シュトレーリッツ公Adolphus Frederick(ドイツ語ではAdolf Friedrichらしい)4世に贈った。時代を下ってから再びの贈呈により、英国王室に戻った。

新倉真由美がチェルシーの家具工房扱いしたメクレンブルク=シュトレーリッツは、シャーロット王妃の実家。新倉本にもあるとおり、シャーロット王妃はバッキンガム宮殿(当時はバッキンガム・ハウス)の最初の住人。Meyer-Stableyが原本のどこかにメクレンブルクの名を書いてもおかしくないが、どうだったのだろうか。

度重なる当てずっぽうと省略

こうして見比べると、新倉真由美は意味が分からない単語に出会うたびに、適当に意味を推測したか、あるいは無視したように見える。serviceとnichesのどちらかをなおざりにしなければ、主語がテーブルでないことは分かったはずなのに。文章の要となる主語、それも仏和辞書に当たれば分かる部分で手を抜いたという点で、私にとっては英国王家と血縁関係のある名家をアトリエと間違えるより気に障る。

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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