伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

廊下の家具の様子が召使の境遇に

『バッキンガム』P.48:
膨大な蔵書が収められている図書室や、莫大な量の洋服がかけられたマホガニー製のドレッサーの整理には果てしなく時間を取られ、広い廊下の暗い煉獄に放置され、罰を受けたかのように見えた」
Meyer-Stabley原本:
Des bibliothèques bourrées d'énormes volumes, des dressoirs d'acajou dont le dessus de marbre supportait d'énormes pendules égrenant les heures interminable s'étaient vus condamnés à meubler le sombre purgatoire de ce grand couloir. »
Telperion訳:
膨大な蔵書がぎっしり詰まった本棚、果てしない時を一つずつ打つ巨大な振り子を支える大理石が上部にあるマホガニーの飾り戸棚が、この大廊下の陰気な煉獄に据え付けられるのを強いられていた。

ジョージ6世の侍従でマーガレット王女の恋人だったピーター・タウンゼントによる廊下の回想。少し前に言及されている主廊下のことと思われる。

構文解析

上の私の訳はだいたい直訳。細部の説明のために、原文を少し細かく分ける。

主語1
Des bibliothèques bourrées d'énormes volumes, (膨大な蔵書がぎっしり詰まった本棚)
主語2
des dressoirs d'acajou (マホガニーの飾り戸棚)
dressoirは食器を飾るための棚。
飾り戸棚を修飾する関係節
dont le dessus de marbre supportait d'énormes pendules (その上部は巨大な振り子を支えていた)
  • 関係代名詞がdontなので、関係節の文の主語"le dessus de marbre"(大理石の上部)は先行詞である飾り戸棚のものだと分かる。
  • penduleは女性名詞「振り子時計」か男性名詞「振り子」のどちらなのか、私には確信が持てない。でも廊下に振り子時計があるのは確実。
pendulesを修飾する現在分詞
égrenant les heures interminable (果てしない時を打つ)
ラルース仏語辞典に、heures(時間)が目的語の場合のégrenerの意味が載っていた。
Faire entendre des sons un à un et de façon détachée : Pendule qui égrène les heures.
音を1つずつ離して聞かせる: 時を打つ振り子時計。
仏和辞書でégrenerの他の意味を見ても、「取られる」という解釈は無理。
述語
s'étaient vus (~されていた)
代名動詞"se voir"の受動態に過去分詞が続いている。直訳すると「(過去分詞が示す状態の)自分を見る」だが、「(過去分詞が示す状態に)される」と言い換えて構わない。
状態を説明する過去分詞
condamnés à meubler le sombre purgatoire de ce grand couloir (この大廊下の陰気な煉獄に据え付けられるのを強いられた)
  • condamnéの意味として仏和辞書の最初に来るのは「有罪を宣告された」だが、転じて「強いられた」という意味にもなる。主語である本棚や戸棚の状態を指すのだから、「強いられた」でいいだろう。
  • 最も重要な動詞はmeubler。物が主語の場合の意味は、「部屋に備わる」「~に似合う」など。

この文を主部と述部に分けるとこうなる。

主部
上の一覧の最初の4項を合わせた部分
述部
上の一覧の最後の2項を合わせた部分

主部がとても長大。しかし多くの修飾を省くと、本来の主語は"Des bibliothèques"(本棚)と"des dressoirs"(飾り戸棚)だと分かる。

新倉真由美の訳の問題

新倉真由美の文で一番の飛躍に見えるのは、廊下の家具について説明している原文が、廊下で働く人間の待遇に化けたこと。原文には人を指す普通名詞や代名詞は見つからないのに。condamnésのメジャーな意味の1つが「有罪を宣告された」だから、主語は人だと思い込んだのだろうか。

後は、語句レベルの誤訳をいくつか取り上げる。

図書室(正しくは書棚)
bibliothèqueの意味の1つが「図書室」なのは確か。しかしこの文のbibliothèqueは廊下を飾り付けるものなので、部屋ではありそうにない。
ドレッサー(正しくは飾り戸棚)
dressoirのスペルはドレッサーを連想させる。でも辞書を引けば、洋服の収納には使いそうもない棚だと分かる。
洋服(正しくは振り子または振り子時計)
pendulesはとても「洋服」と訳せる単語ではないが、「ドレッサー」からの連想だけで洋服にされたのだろう。
整理
「整理」という意味の単語、または「整理」という意味だと誤解されそうな単語が原文に見つからない。「果てしなく時間を取られ」と「ドレッサー」を結びつけるために新倉真由美が創作したのかも知れない。

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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