伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

Meyer-Stabley原本とメンデルスゾーンの手紙の相違

宮殿を訪問した後のメンデルスゾーンの手紙

先ごろ「メンデルスゾーンとアルバートのオルガン競演」を書くとき、少し好奇心を起こしてgoogleで検索してみました。すると、バッキンガム宮殿に招待されたメンデルスゾーンが家族に宛てた1842年7月19日付の手紙の抜粋が学術文献サイトJSTORで公開されているのを見つけました。出典は「The Musical Times and Singing Class Circular Vol. 43, No. 713 (Jul. 1, 1902), pp451-455」。似たような抜粋をもっと大きい文字で読めるサイトもありますが、出典がはっきりしているのでここではJSTORの文面を使います。

ところがこの手紙では、ヴィクトリア女王の夫君アルバートがメンデルスゾーンのためにオルガンを演奏したときの説明が、先ほどのオルガン競演記事で引用したMeyer-Stableyによる記述と違うのです。私は英国王室についてはバレエよりなお疎いので、Meyer-Stableyが間違っていると断定するのは気が引けます。それでも、強い疑いを抱いています。

比較するMeyer-Stableyの文

メンデルスゾーンの手紙と比較するのは、先ほどの記事の中で«と»に囲まれた部分です。

Meyer-Stabley原本:
« par cœur, avec les pédales, de façon si charmante, si claire et si correcte que son exécution aurait fait honneur à n'importe quel professionnel... et puis toutes les partitions sont tombées par terre et c'est la reine qui les a ramassées »...
Telperion訳:
「暗譜で、ペダルを用い、たいそう魅力的で、たいそう明晰で、たいそう正確だったので、その演奏はどのような本職の者にとっても名誉となったことでしょう…そしてその後、楽譜がすべて落ち、拾い集めたのは女王ご自身でした」…

"comme le rappelle une dame d'honneur"(ある女官がそれを思い返すように)という説明が添えてあるので、回顧するのは匿名の女官。

相違1. 回顧した人物の違い

手紙では、メンデルスゾーンがアルバートにオルガン演奏を頼んだ後のことをこう書いています。

メンデルスゾーンの手紙:
He then played a chorale, by heart, with the pedals, so charmingly and clearly and correctly that it would have done credit to any professional;
Telperion訳:
するとコラールを弾いてくださいました。暗譜で、ペダルを用い、大変魅力的で明晰で正しかったので、どの本職の人間にも名誉になったことでしょう。

女官でなくメンデルスゾーンの感想ではありませんか! たまたまメンデルスゾーンと女官が同じことを書いたとか、女官がメンデルスゾーンの手紙文を借用するとかいう可能性がゼロとは言いません。でも学術的な雑誌に載ったことと、『Noureev』で結構ミスしているMeyer-Stableyが書いたことでは、前者を信用したくなります。

相違2. アルバートの演奏と散らばった楽譜の前後関係

楽譜が落ち、女王自らが拾い集めたというエピソードは、上と同じ手紙にもあります。

メンデルスゾーンの手紙:
and then, suddenly interrupting herself, she exclaimed, “But, goodness! what a confusion!”for the wind had littered the whole room and even the pedals of the organ - which, by-the-way, made a very prettey feature in the room - were covered with leaves of music from a large portfolio that lay open. As she spoke she knelt down and began picking up the music :
Telperion訳:
そして(ヴィクトリア女王は)話を突然中断して叫びました。「でもまあ、なんと散らかっているのでしょう!」。なぜなら風が部屋中を散らかし、オルガン(ところで、これは部屋のとてもきれいな特徴となっていました)のペダルにまでも、開けたままの大きな書類入れにあった楽譜がかぶさっていたのです。陛下は話しながらながら膝をつき、楽譜を拾い始めました。

問題なのは、メンデルスゾーンの手紙では、ヴィクトリアが楽譜を拾ったのはアルバートが演奏する前だということです。メンデルスゾーンと女官の記憶が違っていたとすればつじつまが合いますが、そもそも女官の実在すら疑わしいようでは、ここでもメンデルスゾーンを信じたくなります。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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