伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

メンデルスゾーンとアルバートのオルガン競演

『バッキンガム』P.50:
アルバート王子が才能を披露したときのことをある女官が記憶していた。
「王子様は曲を暗譜し、ペダルを使って非常に魅力的で正確な演奏をされ、誰もが賞賛しました。演奏が終わると床に散らばった楽譜を女王が拾い集めていらっしゃいました」
Meyer-Stabley原本:
Le prince Albert fit lui aussi démonstration de son talent en donnant, comme le rappelle une dame d'honneur, un choral « par cœur, avec les pédales, de façon si charmante, si claire et si correcte que son exécution aurait fait honneur à n'importe quel professionnel... et puis toutes les partitions sont tombées par terre et c'est la reine qui les a ramassées »...
Telperion訳:
アルバートもコラールを演奏し、メンデルスゾーンに自分の才能を披露した。ある侍女の回想によると、「暗譜で、ペダルを用い、たいそう魅力的で、たいそう明晰で、たいそう正確だったので、その演奏はどのような本職の者にとっても名誉となったことでしょう…そしてその後、楽譜がすべて落ち、拾い集めたのは女王ご自身でした」…。

舞踏会の間の逸話としてMeyer-Stableyが挙げた、1842年にメンデルスゾーンがそこのオルガンを弾いたという話に続く部分。

アルバートの演奏は敬意を集めるのでなく表す

「誰もが賞賛しました。」に当たる原文は次のとおり。

son exécution aurait fait honneur à n'importe quel professionnel...

いくつかに分けて説明する。

son exécution
文の主語で、意味は「彼の演奏」。
aurait fait honneur à
文の述語周辺。時制が条件法過去である"faire honneur à ~(名詞句)"というイディオム。このイディオムの意味は「~の名誉となる、~を尊重する」。
n'importe quel professionnel
前のイディオム"faire honneur à"に続くべき名詞句。"n'importe quel ~(名詞)"は「どんな~でも」

文脈を踏まえると、直訳は「彼の演奏はどんなプロの名誉にもなるでしょう」。ポイントを2つ書く。

なぜ時制が条件法過去なのか
過去のことについて、条件法の用法のひとつ「断定を避ける」を当てはめるため。「すべてのプロの名誉になる」は明らかに個人の主観なので、断定口調では押しつけがましいのだろう。
faire honneur à の意味
詳しくは次に述べるが、アルバートの演奏はメンデルスゾーンに聴いてもらったもの。優れたアマチュアに敬意を込めた演奏を披露されるのは、メンデルスゾーンならずともどんなプロにも光栄なことだ、という理屈なのだと思う。

メンデルスゾーンとアルバートは同じ場にいた

アルバートの演奏に最初に触れた「アルバート王子が才能を披露した」に当たる原文はこの部分。

Le prince Albert fit lui aussi démonstration de son talent

代名詞lui(彼に)があることに注目してほしい。luiが指すのは、前の文でオルガン演奏について書かれたメンデルスゾーン。アルバートが才能を披露したのは、メンデルスゾーンに向けてのことだった。

新倉真由美の文だと、前のメンデルスゾーンの文とつながる手がかりが何もないため、メンデルスゾーンの話とアルバートの話が別々に見える。代名詞が和訳で省略されるのはよくあることで、それで支障ないことは多い。でもせっかく、後世でも名高い音楽家とイギリス王族が同じ部屋で同じオルガンを弾いたのだから、そのことは疑問の余地なく表現して欲しかった。ドイツ・オーストリア圏の音楽をよく聴くクラヲタの感傷かも知れないが。

新倉真由美の文から受けるアルバートの印象の幼さ

女王がアルバートの楽譜を拾い集めたのは1842年なのだから、この女王とは当時20代前半のヴィクトリア。ヴィクトリアに関係するアルバートといえば、何といっても夫君。ヴィクトリアの子の中にアルバートの名を持つ王子はいたそうだが、1842年ではとてもオルガンを弾きこなせる年齢ではない。

引用した部分を読んでいて、気になることが2つある。

「王子様」という呼び方
回想文の中でアルバートはせいぜいson(彼の)という形でしか触れられておらず、「王子様」は新倉真由美が"Le prince Albert"から連想した呼び方。しかしこの呼び方、成人男性には似合わない。こう呼んだのが幼いころから世話してきた乳母なら分かるが、原文によると単なる侍女(dame d'honneur)。
楽譜が散らばって当然のような書き方
原文では演奏描写の後で"et puis toutes les partitions sont tombées par terre"(そしてその後、すべての楽譜が床に落ちた)と書かれている。楽譜が床に落ちたのはちょっとした事件なのだ。しかし新倉真由美の「演奏が終わると床に散らばった楽譜を~」では、楽譜が床に落ちるのは当たり前のような書き方。アルバートはそんなに行儀悪く譜めくりをしていたのかと想像してしまう。

どうも新倉真由美の文を読むと、アルバート王子は幼い少年、恐らくは女王の息子のように見えてならない。アルバートをヴィクトリアの夫君と認識してなお「王子様」と書けるものだろうか。私の目には留まっていないが、新倉真由美はエリザベス2世の夫君フィリップも「王子様」と呼んでいるのか?

おまけ - 日本語でのアルバートの呼び方の難しさ

"le prince Albert"を私が「アルバート」と呼び捨てにしているのは、日本語でのアルバートの呼び方を決められないため。

  • googleだと「アルバート公」をよく見る。しかしエディンバラ公やヨーク公など、公付けされる英国王室の男性と違い、アルバートは公爵ではない。
  • 「王子」は女王の夫を指す言葉としてぴんと来ない。
  • 「公子」はアルバートが生まれたときの身分だが、princeは結婚後の身分を指すと思う。
  • 「王配」はあまりに耳慣れない。

「妃」に対応する男性用の言葉が日本語になくて残念。

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

プロフィール

Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

カテゴリ
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
タグ

マーゴ・フォンテーン エリック・ブルーン ノートルダム・ド・パリ パトリック・デュポン マリア・トールチーフ ミック・ジャガー 

全記事表示リンク

全ての記事を表示する