伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

女王夫妻の私室の様子は関係者が教えた

『バッキンガム』P.48-49:
しかし、彼らの信頼を受け、カーテンを押し開け中に入ることを許されている犬たちは、女王の部屋に家族の肖像画が飾られていることや、厚い絨毯の上に快適な肘掛椅子が置かれ、ダマスク織のカーテンがあることを知っている。人びとの想像とは異なり、女王は天蓋付きのベッドでなく、ドレープの施されたダブルベッドを使用している。
Meyer-Stabley原本:
Cependant, les confidences de ceux qui ont le privilège d'y ouvrir les rideaux et d'y faire entrer les chiens permettent d'affirmer que ces pièces débordent de portraits de famille, que la chambre de la reine comprend un canapé confortable, d'épais tapis et des rideaux de damas; et que contrairement à ce que l'on imagine, Élisabeth ne dort pas dans un lit à baldaquin, mais dans un lit à deux places garni de draperies.
Telperion訳:
しかし、そこでカーテンを開け、そこに犬を入れる特権を持つ者たちの打ち明け話のおかげで、これらの部屋は家族の肖像であふれており、女王の寝室には座り心地の良いソファー、厚い絨毯、ダマスク織のカーテンがあると言い切れる。世間の想像に反し、エリザベスが眠るのは天蓋付きのベッドでなく、カーテンが備わったダブルベッドだということも。

女王の私室の説明。仮想上の宮殿ツアーで読者を一般客には入れない場所までも連れ回すMeyer-Stableyだが、さすがに女王夫妻の私室には入れないと前置きした上で、こう続けている。

原文の大まかな構成

この文はいくつかの部分に分けられる。

主語
les confidences de ceux qui ont le privilège d'y ouvrir les rideaux et d'y faire entrer les chiens (そこでカーテンを開け、そこに犬を入らせる特権を持つ者たちの打ち明け話)
述語とその周辺
permettent d'affirmer (断定するのを許す)
断定の内容1
que ces pièces débordent de portraits de famille (これらの部屋は家族の肖像であふれているということ)
断定の内容2
que la chambre de la reine comprend un canapé confortable, d'épais tapis et des rideaux de damas (女王の寝室には座り心地の良いソファー、厚い絨毯、ダマスク織のカーテンがあるということ)
断定の内容3
que contrairement à ce que l'on imagine, Élisabeth ne dort pas dans un lit à baldaquin, mais dans un lit à deux places garni de draperies. (世間の想像に反し、エリザベスが眠るのは天蓋付きのベッドでなく、カーテンが備わったダブルベッドだということ)

原文はまず長い主語が現れ、次に述語で「これ(主語が指すもの)は次のことを断定するのを許す」と説明し、その後に女王の部屋の描写を続ける。日本語なら「これのおかげで、次のことは確かだ」といった形のほうが自然だろう。つまり原文の主語は情報源の説明。「あなたはどこそこに入る、そこはこういう部屋である」という仮想ツアー形式をここではあきらめたMeyer-Stableyは、「こういう部屋だと人から聞いた」という受け売り形式に切り替えた。

情報源となった人々の説明

修飾語を省いた主語は"les confidences"(打ち明け話)。どうも新倉真由美はconfidenceを「信頼」と解釈したらしいが、それはフランス語でなく英語の意味。

"les confidences"の後にある"ceux qui"で始まる名詞句は、打ち明け話の主の説明。"ceux qui ~(関係節)"は英語の"those who ~"に似ており、関係節で書かれた動作を行う人々を表す。この場合、その動作とは関係節の述部"ont le privilège"(特権を持つ)。さらに、privilègeに続く2つの"de 不定詞"が特権の内容を説明している。

  • d'y ouvrir les rideaux (そこでカーテンを開ける)
  • d'y faire entrer les chiens (そこに犬を入らせる)

この2つの動作を行う人々とは、つまり女王のプライベートな場所を担当する召使。

部屋の最後の説明も打ち明け話の対象

セミコロンで文は一度途切れるが、実はまだ終わらない。セミコロンの後にet(そして)、さらにもう1つの"que ~(文)"(~ということ)が続くからだ。つまり、セミコロンの後にあるqueで始まる文も、セミコロンの前にある2つのqueで始まる文と同じく、女王の私室担当の召使が打ち明けたことの1つ。

セミコロンの後が前の文の続きだと分かった上で、新しい文のような訳文にするという選択もあるだろう。しかし新倉真由美はそこまで考えず、単に邪魔なqueを無視し、新しい別な文が始まったということにしたのではないかと、私は強く疑っている。

そういう意地悪なことを考えるのも、その前の「彼らの信頼を受け」だの「入ることを許されている犬たち」だの「犬たちは知っている」だのが、原文の成り立ちなどほったらかしで文中の単語を適当に組み合わせたようにしか見えないから。部屋の様子の情報源が何なのかは、この文では部屋の描写に比べて重要でないため、そこの扱いが無茶苦茶でも、宮殿案内としての信頼性は損なわれずにすんでいるが。

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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