伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

トイレで流す水からうかがえる宮殿らしさ

『バッキンガム』P.52:
水を流す音が聞こえる。
Meyer-Stabley原本:
la chasse d'eau est on ne peut plus discrète.
Telperion訳:
水を流す音はこの上なく控えめである。

宮殿の化粧室について。前の段落でチャールズ皇太子などのかつての住居をデヴィッド・ヒックスが装飾したと書いてあるので、化粧室もその住居の一部かも知れない。

仏文和訳

  • 原文は"la chasse d'eau est discrète."(トイレの水流は慎み深い)にイディオム"on ne peut plus"(この上なく)が加わったもの。
  • discrèteは「慎み深い、秘密を守る」といった意味。トイレの水について述べる場合は「音が目立たない」という意味だろう。

分かってみれば単純な構文だが、私が解析できたのは1か月以上後。ひとえに"on ne peut plus"に手こずったせい。

  • 主語と述語をそなえた文のような形の"on ne peut plus"が、別の文の中に唐突に入っている。
  • 『プログレッシブ仏和辞典第2版』でonやplusを引いても、"on ne peut plus"は載っていない。動詞peutの原形pouvoir(できる)を引けば見つかるが、pouvoirを調べるという発想が浮かばなかった。

なぜ流す水に触れるのか

新倉真由美は"la chasse d'eau"(トイレの水流)以外を適当に創作したように見える。さっき書いたとおり、ここに関しては真剣に訳そうとしても苦労したため、創作したこと自体を咎める気にはならない。でも、私には新倉真由美の推測がもっともらしく見えず、Meyer-Stableyはそうは書かなかっただろうとずっと疑っていた。

観光客として宮殿を訪れた読者を案内するガイドのような言い方で、Meyer-Stableyが宮殿のあちこちを説明していることは、前に何度か書いた。そのガイドがトイレに客を連れて行って、「水を流す音が聞こえます」などと説明したら、客に「そんなものを盗み聞きさせる気か」と白い目で見られるのが落ち。Meyer-Stableyにはそれなりに常識や節度があると私は思っているので、Meyer-Stableyがそんなプライベート過ぎることに何の意味もなく注意を向けるとは信じられない。

トイレの水流には宮殿ならではの注意を引くべき特徴があると、Meyer-Stableyは見なしたのだろう。つまり水音の控えめさ。壁や扉がよほど分厚く、水音をほとんど通さないのだろうと私は想像している。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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