伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

ルートが複雑なのは宮殿の外側でなく内側

『バッキンガム』P.44:
建物の北東棟のロイヤルブルス門から入った人と、南西棟のキッチン側の門から入った人が、どうやって宮殿の一階に達するのかわかりませんでした。宮殿の後ろ側の一部分は、違う階に繋がるように交差していました。
Meyer-Stabley原本:
je ne comprends toujours pas comment deux personnes entrant dans le palais au rez-de-chaussée, l'une par la porte de la Bourse royal à l'angle nord-est du bâtiment et l'autre par la porte des cuisines à l'angle sude-ouest, en se dirigeant l'une vers l'autre, réussissent à ne jamais se rencontre. Quelque part à l'arrière du palais, elles se croisent sans se voir, à des étages différents.
Telperion訳:
二人の人間が宮殿に1階で入り、一人は建物の北東の角にある君主手許金の戸口から、もう一人は南西の角にある厨房の戸口から、互いに相手に向かって進みながら、どうすれば決して会わないことに成功するのか、私には今でも分かりません。宮殿の後ろのどこかで、二人は互いを見ずに、違う階ですれ違うのです。

宮殿で15年勤めた元召使、ラルフ・ホワイト(Ralph White)の述懐より。

第1文の構成

前半

最初の文は、"je ne comprends toujours pas comment ~(文)"という形をしている。commentの後に続く文がむやみに長いので、その説明を後回しにすると、「どうすれば~なのか、私は今でも分かりません」となる。英語の"I do not understand how ~(文)"と同じようなもの。

後半

commentに続く文は次のように分解できる。

主語
deux personnes entrant dans le palais au rez-de-chaussée (1階で宮殿に入る二人)
主語の言い換え
l'une par la porte de la Bourse royal à l'angle nord-est du bâtiment et l'autre par la porte des cuisines à l'angle sude-ouest (建物の北東の角にある君主手許金の戸口を通る一人と、南西の角にある厨房の戸口を通るもう一人)
主語の動作を説明するジェロンディフ
en se dirigeant l'une vers l'autre (互いに相手に向かいながら)
述部
réussissent à ne jamais se rencontre (決して会わないことに成功する)

第1文で使われる語句の説明

la porte de la Bourse royalは本来は英名

宮殿に入る一人が通るのは"la porte de la Bourse royal"。porteは門または戸、"bourse royal"は「王室の財布」という意味のフランス語。イギリスの宮殿の場所にフランス語の名が付くとは考えにくいので、イギリスでは英語で呼ばれていると思われる。ここで、原本第1章の最初のほうで触れられた戸口"Privy Purse Door"(君主手許金の戸口)の中にpurse(財布)という単語が入っていることを思い出せば、"la porte de la Bourse royal"は"Privy Purse Door"のフランス語訳だと見当が付く。

porteは門でなく戸口

ホワイトは「1階で宮殿に入る二人」と言った後、それぞれについて"par la porte ~"(porteを通って)と説明している。宮殿に入る人間の説明だし、porteの一方は恐らく"Privy Purse Door"なのだから、porteは門でなく戸口だと推定できる。

宮殿内部の通路の理解不能さを言いたいホワイト

ホワイトの言葉によれば、宮殿の反対の方角から入った二人が相手の方角に向かっても、会わずにすれ違ってしまう。見取り図には大きな部屋しか書いていないので、そんなことは起こらないように思える。しかし、実際には宮殿内部には細かい通路が縦横に走っていて、反対側に行くルートが幾通りもあり、ホワイトには把握しきれないのだろう。

引用より少し前で宮殿を"une architecture labyrinthique"(迷宮の建築)と呼ぶなど、Meyer-Stableyはこの周辺で宮殿の中が迷いやすいことをいろいろ述べている。私にはこの迷いやすさの描写が新倉本のあちこちで薄まっているように思えるが、それについてはまた後日書きたい。

宮殿外部の描写に変わった新倉真由美の文

新倉真由美の文は、宮殿に至る2つの門から宮殿に向かう人の話になった。恐らくその原因は2つ。

疑問文の述部が「1階に達する」に化ける
どうやら新倉真由美は、"deux personnes"(二人)に続く現在分詞entrant(入る)を述語entrentと見間違えたのではないかと思う。そのため、本当の述語réussissent(成功する)を説明できなくなったので、述部を丸ごと、ついでにジェロンディフも無視した。こうして「どうして会わないことに成功するのか」が「どうやって宮殿の一階に達するのか」に変化した。
porteを戸口でなく門にした
これは新倉真由美の癖。"Privy Purse Door"に関する記事の他に、「開放されるのはステート・ルームを仕切る扉」でも取り上げた。

第2文で交差するのは第1文の2人

2番目の文の要となるのは"elles se croisent sans se voir"(彼らは互いを見ずにすれ違う)。これを次の2つの語句が修飾する。

  • Quelque part à l'arrière du palais (宮殿の後ろのどこかで)
  • à des étages différents (違う階で)

文の主語ellesは複数の女性名詞を表す代名詞。女性名詞の複数形として唯一該当するのは、前の文にある"deux personnes"(二人)。personneは女性を指すとは限らないが、personne自体は女性名詞なので。

新倉真由美はellesを無視し、"Quelque part~"が主語だと解釈したらしい。しかしこの解釈には無理がある。

  • "quelques part"は「どこかに、どこかで」というイディオム。場所を指す修飾語なので、主語にはならない。
  • 2番目の文の述語は"se croisent"(すれ違う)だが、この活用形は主語が三人称複数形の場合のもの。"quelque part"はどう見ても名詞の複数形ではない。

おまけ - 2つの戸口の場所の推測

googleマップから宮殿の東西南北は分かるので、新倉本P.37の宮殿1階見取り図と照合してみた。君主手許金の戸口も厨房の戸口も、あいにく見取り図には載っていないが、私には次の場所にありそうに思える。

君主手許金の戸口と厨房の戸口
君主手許金の戸口
別の記事で場所を推測したことがある。その場所をgoogleマップにおける宮殿の形の写し図に重ねた。その記事と上の図では左右が逆になっているのは、見取り図では南が上になっているから。
厨房の戸口
厨房は宮殿の南の角を占めている。図の場所に戸口があるなら、原本の記述どおりになる。

君主手許金の戸口が北東に、厨房の戸口が南西にあるという原本の記述は、信頼してもよいと思う。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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