伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

デービッド・ヒックスとマウントバッテン卿は別人

『バッキンガム』P.52:
チャールズはセント・ジェームス公園とザ・マルに面している三部屋を所有している。ほとんどの住まいはデヴィッド・ヒックス・マウントバッテン卿が装飾を手掛け、バッキンガム宮殿独特の様式である。
Meyer-Stabley原本:
Charles occupait trois pièces qui donnent sur le Mall et St James's Park. Presque tout l'appartement a été décoré par le gendre de Lord Mountbatten, David Hicks, dans le style caractéristique de Buckingham Palace.
Telperion訳:
チャールズはザ・マルとセント・ジェームス公園に面する3部屋を占有していた。住居のほぼすべてはマウントバッテン卿の義理の息子デービッド・ヒックスによって、バッキンガム宮殿特有のスタイルで装飾された。

ヒックスはマウントバッテン卿の義理の息子

バッキンガム宮殿にあったチャールズの住居を装飾した人物は、"le gendre de Lord Mountbatten, David Hicks"。新倉真由美はgendre(義理の息子)を抜いてしまった。

文法的には、原文は次のどちらにも解釈できるかも知れない。

  • マウントバッテン卿の義理の息子、デービッド・ヒックス
  • マウントバッテン卿、デービッド・ヒックスの義理の息子

しかし、バッキンガム宮殿の一部を装飾した人物を匿名で書くのは不自然なので、1番目の解釈が正しいだろうと見当が付く。実際、デービッド・ヒックスというブランドは今もある。そのWebサイトに載っている創始者ヒックスの略歴には、レディ・パメラ・マウントバッテンと結婚したと書いてあるが、本人に称号があるようには見えない。

マウントバッテン卿という呼び名は、この本でこの個所以外でも何度か見かけた。巻末の「エリザベスII世略歴」に「1979年 マウントバッテン卿暗殺」の項があるほど、王家に影響力のあった人物らしい。何も知らない人が読んだら、そのマウントバッテン卿はデザイナーだったと勘違いしないか、いささか心配になる。

今は宮殿にいないチャールズ

最初の文の述語occupait(占めていた)の時制は直説法半過去。つまりチャールズ皇太子が部屋の持ち主だったのは過去のこと。結婚して独立したのだから、当然だろう。しかし新倉真由美の書き方では、まるでチャールズが今もバッキンガム宮殿に住んでいるように見える。

フランス語では英語ほど厳密に現在形と過去形を区別しないらしい。いい例が、過去についての叙述を基本的に現在形で書いていた『Noureev』。しかし『La Vie quotidienne à Buckingham Palace sous Elisabeth II』では、Meyer-Stableyは『Noureev』よりはるかに頻繁に過去形を使う。ほぼすべてが過去の出来事である『Noureev』と違い、『バッキンガム』は過去の記述と現在の記述が入り混じっているので、時制をしっかり区別する必要があるのだ。それを邦訳でいい加減に扱うことはできない。

『Noureev』でも、Meyer-Stableyがたまに過去形を使うときは、そうする理由があった。次の例では、いずれも「書いている主な出来事よりさらに前に別の出来事があった」という意味で、直説法複合過去を使っている。

ここで説明するのはチャールズの住居のみ

新倉本ではこの文の前に、「そしてチャールズ、アン、アンドリュー、エドワードの住まいがある」という文がある。その後で「ほとんどの住まい」といえば、この4人の住まいのうち3人くらいの住まいを想像するだろう。しかし原文の"Presque tout l'appartement"でappartementは単数形なので、チャールズの住まい1つだけを指す。toutは「複数すべて」でなく「ある一つの全体」という意味。

もっとも、ヒックスは実際にアンとエドワードの住まいも装飾した。しかしMeyer-Stableyは引用した文の後で、まずチャールズの住まいの様子を描写し、その後で初めて、他の2人の住まいをヒックスが装飾したことを述べている。Meyer-Stableyが"Presque tout l'appartement"と書いたとき、チャールズの住まいしか頭になかったことの表れだろう。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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