伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

開放されるのはステート・ルームを仕切る扉

『バッキンガム』P.50:
宮殿の出入りの門は開放され、それぞれの部屋で巨大なシャンデリアが光景を照らし出す。
Meyer-Stabley原本:
De part et d'autre et de bout en bout des Grands Appartements, les portes-miroirs pliantes restent ouvertes et dans chaque pièce des lustres massifs éclairent la scène.
Telperion訳:
威容ある続き間の両側の端から端まで、折り畳みの鏡張りの扉は開いたままになり、各部屋で重厚なシャンデリアが舞台を照らす。

宮殿2階で王族が列を作って豪華な部屋の数々を移動していくときの様子。

話題になっているのは終始2階の部屋

"Grands Appartements"の新倉真由美訳の不統一

文中の"Grands Appartements"が初めて出るのは、引用した文の少し前にある、舞踏会の間の説明に含まれる文。王族の行列について説明する最初の文でもある。

『バッキンガム』P.50:
舞踏会や晩餐会に使うときには、大広間の中を王室の人びとが行列を作って歩く光景を目にすることができる。
Meyer-Stabley原本:
Lorsqu'on l'utilise pour les bals ou banquets d'État, les cérémonies offrent le spectacle de la procession royale à travers les Grands Appartements.
Telperion訳:
国が催す舞踏会や宴会でここを使うときは、威容ある続き間を横切る王族の行列という見せ場が儀式で見られる。

2つの文を見比べると、新倉真由美は"Grands Appartements"に「大広間」「宮殿」という2つの訳語を当てているのが分かる。同じ個所で王族の行列について説明する文にしては、範囲が違い過ぎる。

次の2つの理由から、「大広間」より「宮殿」のほうが、"Grands Appartements"と呼ばれる場所からかけ離れている。もっとも、新倉真由美が「大広間」と訳した部屋が宮殿1階にあるので(英名は"the Grand Hall")、2階のここを「大広間」と呼ぶのも紛らわしいが。

理由1. 具体的に挙がるのは限定された部屋

"Grands Appartements"が出てくる2つの文の間で、王族の行列が通る場所は順番に名指しされている。参考までに英名を新倉真由美の訳語に添えて書く。

  1. 白の客間 (the White Drawing Room)
  2. 音楽の間 (the Music Room)
  3. 青の客間 (the Blue Drawing Room)
  4. 晩餐の間 (the State Dining Room)
  5. 舞踏会の間 (the Ballroom)

これらの部屋はバッキンガム宮殿の精華とも言うべきステート・ルーム(the State Rooms)の一部だが、「宮殿」と呼ぶのは大ざっぱ過ぎる。

理由2. appartementの語義は複数の部屋

appartementの最も一般的な意味は、集合住宅に含まれる住居の単位である複数の部屋。Meyer-Stabley本では、壮麗な儀式用の広間を指すことも、住み込み職員の私室を指すこともあるという、訳すのが難しい言葉。だが、どちらにしても建物全体を指す言葉ではない。

扉の役目

"Grands Appartements"の両側(de part et d'autre)の端から端まで(de bout en bout)開いたままになっているのは、折り畳みの"portes-miroirs"。扉(porte)と鏡(miroir)をつなげただけの単純な単語で、『プログレッシブ仏和辞典第2版』やラルース仏語辞典では見つからなかった。しかし、扉と鏡の両方の機能を持ち、開けたままにできるのだから、鏡張りの扉だろうと見当が付く。

新倉本P.38の宮殿2階見取り図を見ると、先ほどの5部屋はあの順に隣接している。恐らく、これらの部屋を隔てる壁に、大きな鏡張りの扉があるのだろう。そして儀式のときは扉を開け放ち、部屋から部屋へと王族が直接移動する。そうしないと、廊下の役目があるピクチャー・ギャラリー(新倉本の見取り図では「絵画の間」)をいちいち経由しなければ次の部屋に行けず、"à travers ~"(~を横切って)という表現が似合わない。

私は前に、porteをとにかく「門」と訳そうとする新倉真由美の思い込みの強さに触れたが、ここもその一つ。王族が横切る場所の話をしているのだし、「鏡」や「折り畳みの」(pliantes)という、門には似つかわしくない単語もあるのに。

英国王室公式サイトで見られる鏡張りの扉

さっきは「恐らく」と書いたが、英国王室公式サイトのおかげで、扉が実在することを今のところ確認できる。新倉本巻末にも、王室公式サイトのURLが載っている。

  1. 青の客間のバーチャル・ツアーで、カーソルをドラッグして、窓が右側に来るように向きを定める。すると真正面に鏡張りの扉がある。その向こうに晩餐の間があるはず。
  2. ここで窓が左側に来るように、反対側を振り返る。すると真正面に開いた扉があり、その向こうに青い柱が見える。これは音楽の間のもの。新倉本P.50にも「音楽の間には(中略)ダークブルーの一六本の柱がある」と書かれている。さらに遠くを見ると、シャンデリアの向こうに大きな絵がある。
  3. 白の客間のバーチャル・ツアーに行けば、先ほど見えた絵が白の客間にあることが確認できる。扉が閉まっているので白の客間から青の客間は見えないが、音楽の間の青い柱は見える。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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