伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

KGBへの異常なまでの恐怖心

『ヌレエフ』P.114:
また神出鬼没な変質者たちを警戒して、リハーサルのとき、ヌレエフとパートナーたちはプラザホテルのキッチンを通り抜け
Meyer-Stabley原本:
La paranoïa devient telle que pour les répétitions Noureev et ses partenaires entrent par l'hôtel Plaza, traversent en secret les cuisines
Telperion訳:
偏執症があまりに高じたため、稽古のためにヌレエフとそのパートナーたちはホテル「プラザ」から入り、密かに厨房を抜け、

亡命後初めて出演の契約を交わしたクエヴァス・バレエでの稽古のとき、KGBに尾行されないために手を尽くしたことについて。

"La paranoïa devient telle que ~(節)"は「偏執狂があまりにも激しくなったため、~である」。偏執症(paranoïa)とは、特定の妄想にとりつかれた状態を指す精神的疾患らしい。新倉真由美は最初の部分を「神出鬼没な変質者たちを警戒して」と訳しているが、この訳は次の点がおかしい。

  1. 疾患が重いことと「神出鬼没」の間には何の関係もない
  2. 患者を指すなら病名paranoïaではなく、paranoïaqueを使うはず

paranoïaという言葉は13章でも出てくる。1つは"La paranoïa du danseur"(訳本ではP.227「彼に精神的に不安定な兆候が見られた」)で、全文は記事「衣装係が監視する場所」にある。もう1つは次のとおり。

Meyer-Stabley原本:
déjà paranoïaque quant à la surveillance exercée par les Soviétiques,
『ヌレエフ』P.229:
ソ連が行っていた監視により既に精神に支障をきたしていた
Telperion訳:
ソ連が行う監視のことになるとすでに偏執的だった

どちらも、ヌレエフがKGBに対して抱く恐怖心を指している。問題の部分の前でも、ヌレエフやラランがソ連からとおぼしき圧力に苦しんでいたことが語られている(直前の文は「私立探偵をどこでも同行させなければならなかった」)。だからここでいうparanoïaも、病的なまでに高まったKGBへの恐怖心や警戒心を指すと推測できる。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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