伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

ニューヨークで初めての公演

『密なる時』P.19:
マーゴ・フォンテーンとルドルフ・ヌレエフのカップルが、ブロードウェイの古いメトロポリタン劇場で『ジゼル』を初演した時のことは今も忘れがたい (注3)。
プティ原本:
le couple Fonteyn-Noureev dansant Gisèle pour la première fois sur la scène du vieux Metropolitan de Broadway est inoubliable.
Telperion訳:
ブロードウェイの古いメトロポリタンの舞台で初めてジゼルを踊るフォンテーンとヌレエフのカップルは忘れられない。

初演とは作品の初上演を指す

「初演」を国語辞書を引くと、こうある。

デジタル大辞泉
初めて上演・演奏すること。「この戯曲は一九四九年に―された」「本邦―」
新明解国語辞典第5版
最初の演奏(上演)。「本邦―」

また、googleで見つかる「初演」の用例で多いのは以下のとおり。

  • 世界で初めて上演された(一番よく見る意味)
  • ある場所で初めて上演された
  • あるバレエ団で初めて上演された(バレエ演目の場合)

しかし「あるダンサーが初めてそれを演じた」という意味で使われているのは見かけない。

つまり、「初演」という概念の主役は作品。「他のバレエ団ですでに演じられた作品をあるバレエ団で初めて演じる」を「何とかバレエ団初演」と呼ぶのは、上演場所が広がるという意味で作品上演の歴史にとって重要になりえるからだろう。しかし、「すでに演じられた作品をあるダンサーが初めて演じた」の場合、そのことはダンサーにとっては重要でも、作品自体の歴史に影響するのはまれ。だから初演とは呼ばないのだと思う。

日本語の「初演する」に当たるフランス語はcréer。ラルース仏語辞典にはこうある。

  • Être le premier à interpréter une chanson, un rôle, etc.
    歌や役などを演じる最初の人間になる
  • Faire représenter un spectacle pour la première fois.
    公演を初めて上演させる

用例まで見ないと分かりにくいかもしれないが、ここでも「初めて」なのは演者でなく作品。

件の「ジゼル」公演を初演と呼ぶのは不適切

では、プティが書いたフォンテーンとヌレエフの「ジゼル」はどうか。

  • フォンテーンとヌレエフがアメリカで共演したのはこれが初めて
  • 「ジゼル」は超メジャー作品なのだから、世界初演もメトロポリタン劇場初演もはるか昔

「初めての公演」の主役はフォンテーンとヌレエフであり、「ジゼル」ではない。作品を主体とする「初演する」という言葉を使うべきシチュエーションではないので、プティはcréant(初演する)でなく、"dansant pour la première fois"(初めて踊る)という言葉を使っている。2人が「ジゼル」を初めて演じたのはロンドンだが、プティの記述は「メトロポリタンで初めて『ジゼル』を踊る」ということで、何の問題もない。

妥当なプティの文を間違い扱いしているような訳注

新倉真由美がここで「初演した」という言葉を使ったのは不適切だと思う。でもそれだけなら、「言葉が変だな」とは思っても、記事にまではしなかったかも知れない。私が見過ごせなかったのは、この部分に新倉真由美が付けた注の存在。

注3 『ジゼル』 ヌレエフとフォンテーンによる『ジゼル』の初共演は、1962年2月21日、ロンドンのコヴェントガーデンで行われた。

何だか私には、「フォンテーンとヌレエフが『ジゼル』を初演したのは、本当はニューヨークでなくロンドンである」と言いたげに見える。プティの文では「初めて」が「メトロポリタンで初めて踊る」を修飾していると私は解釈しているが、新倉真由美は「初めて踊る」だけを修飾していると思ったのではないだろうか。

『ヌレエフ』で新倉真由美が「間違った原文を修正したつもりなのだろう」と思わせる誤訳を繰り返していることは、誤訳を守るために原文を書き換えた疑惑で書いた。ここを読んでいると、その最初の兆しが現れているように思えて仕方がない。わざわざプティが間違ったように解釈するのか、自分は「初演」の使い方がおかしいくせに、という多少の反発を感じる。

更新履歴

2015/3/16
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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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