伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

他の誰よりも前に耐えたプティ

『密なる時』P.76-77:
当初私はなんとか彼の急変ぶりに耐えようと試みたが、彼との殴り合いを回避するにはこれ以外の解決策が見つからなかった。もし喧嘩になったら、この愛してやまない怪物と私は転げ回って殴り合ったかもしれない。
プティ原本:
J'étais le premier à supporter cette crise, mais n'avais pas d'autre solution pour éviter le pugilat dans lequel le monstre aurait tant aimé se rouler avec moi.
Telperion訳:
私はこの危機に誰よりも真っ先に耐えたが、殴り合いを回避するには、他に解決法はなかった。もし殴り合いになれば、あの怪物は私と共に転げ回るのを大変気に入ったろうが。

「ノートルダム・ド・パリ」ニューヨーク公演の打ち上げパーティーでヌレエフに悪罵を浴びせられた翌日、絶交に踏み切ったプティ。

ヌレエフへの愛情は話題になっていない

文の最後の"le monstre aurait tant aimé se rouler avec moi"は、プティが回避した"le pugilat"(殴り合い)を修飾する関係節から関係詞"dans lequel"を除いた文。この殴り合いが実現したら行われたろうことを述べている。これを訳すと、「怪物は私と共に転げ回るのを大変好んだであろう」となる。

構文解析

  • 主語は"le monstre"(怪物)
  • 述語は"aurait aimé"(好んだであろう)
  • 目的語は"se rouler avec moi"(私とともに転げ回る)

新倉真由美は恐らくこう解釈している。

  • 主語は"le monstre tant aimé"(大変愛される怪物)
  • 述語は"aurait se rouler"(転げ回ったであろう)

それが正しくない理由は次のとおり。

  • aiméはauraitより遠くにある"le monstre"にはつながらない
  • auraitはaiméより遠くにある"se rouler"にはつながらない
  • auraitと動詞の原形"se rouler"が合わさってひとつの述語になることはありえない

「最初にする人」と「最初にすること」の違い

最初の原文"J'étais le premier à supporter cette crise"の直訳は、「私はこの危機に耐える最初の人間だった」。"le premier à ~(動詞の不定詞)"は「~する最初の人/もの」だが、主語は私(J')なのだから、premierは「最初のもの」でなく「最初の人」。

「~する最初の人/もの」という言い回しを消さずに、対応する新倉真由美の訳「当初私はなんとか彼の急変ぶりに耐えようと試みた」を書き直すと、「私がした最初のことは、なんとか彼の急変ぶりに耐えようと試みることだった」といった形になる。つまり、最初なのはプティの耐えるという行動。

まとめるとこうなる。

プティの文
  • 最初なのはプティ自身
  • 比べる対象は他の人びと
新倉真由美の文
  • 最初なのはプティの耐えるという行動
  • 比べる対象はプティのしうる他の行動

プティの言葉がどういう意味なのか、私の推測は2つある。

  1. 「この危機」とは打ち上げパーティーの事件だけでなく、稽古中から積み重なってきたプティとヌレエフの不仲全体を指している。「私は誰よりも前から耐えてきた」と言うことで、堪忍袋の緒が切れるのが必然だったと訴えている。
  2. 「私はこの危機に最初に耐える」とは、普段のプティに関する一般論。「私はダンサーからの罵倒ごとき、他の誰よりも難なく受け流すことができる」と言うことで、それをこの時できなかったプティがどれだけ精神的に痛手を受けていたかをほのめかしている。

2番目の推測の場合だと「この危機」より「このような危機」と言いそうなので、私は1番目の推測に傾いている。でも私の語学力では、2番目の推測がありえないとは言い切れない。

1番目の推測どおりの場合、プティの「他の誰よりも前から」も、新倉真由美の「他の何よりも前に」も、「早くから」という意味では似たようなものかも知れない。それでも私は「他の誰よりも前から」という表現を尊重したい。プティが自分と比べている相手の中には、間違いなくヌレエフも含まれているはずだから。

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プロフィール

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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