伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

共同作業の経験は豊富だったヌレエフ

私がMeyer-Stableyの見解について今まで異議を唱えたのは、時折「有名人との恋愛関係のうわさを信じすぎ」と書いてきたくらいでしょうか。ヌレエフは見る人によって大きく違うイメージを呼び起こすので(『密なる時』冒頭にあるように)、人によって言うことが違っても、それ自体はおかしくありません。はっきり白黒つけられない題材では物言いをつけにくいものです。でも今回、それでもちょっと違うんじゃないかと思ったことを書いてみます。

監督となって共同作業が開花したというMeyer-Stableyの主張

何が引っ掛かったかというと、次の記事に載っている「ヌレエフはパリ・オペラ座バレエの監督になって初めて共同作業で開花した、それまでとは違う性質の成功を収めた」という見解です。

ヌレエフがパートナーとなった女性ダンサーたちの多くと友好的な関係だったことは12章に書かれていますが(訳本ではその描写が減らされましたが、それでも残ってはいます)、パートナー以外のダンサーたちとの関係を築けたのは監督になって以後という印象です。「以前は会話をかわさずに踊っていた」と書かれるくらいですから。

ヌレエフの協力的な態度の例

でも、ヌレエフについての文をいろいろ読むと、ヌレエフはロイヤル・バレエでよく踊っていた1960年代から、才能と意欲があるダンサーにとっては頼れる存在だったようです。インターネットで読める記事では、このあたりが分かりやすいですね。

Telegraph紙、デヴィッド・ウォールの訃報

デヴィッド・ウォールは1960~80年代のロイヤル・バレエで活躍しました。

For his part, Nureyev regarded Wall with both wariness and a rare affection, seeing him as the young lion most likely to steal his own position, yet valuing his pleasant friendship.

ヌレエフのほうでは、用心深さとまれに見る好意をもってウォールを見ていた。自身の地位を盗み取る可能性が最も高い若獅子と見なしながらも、彼の心地よい友情を重んじていた。(Telperion訳)

Time誌、ヌレエフの生涯の概要より

パリ・オペラ座バレエで若い才能を育てたことに触れた後にこう続きます。

As Royal's dancers had learned years before, when it came to teaching, he was direct, intelligent and tireless.

ロイヤルのダンサーたちが何年も前に学んだように、教えることになると彼は率直で聡明で根気強かった。(Telperion訳)

Independent紙、ヌレエフの訃報より

ヌレエフがイギリスのバレエ界を革新したことを書いた後にこうあります。文脈的にこれもイギリス時代を指しているでしょう。

A reason for Nureyev's influence with dancers was his generosity in sharing the knowledge he possessed, not as some special favour, but as part of the job, an extension of his commitment to perfection.

ヌレエフがダンサーたちに及ぼした影響の理由は、自分の知識を分かち合うことに寛大だったことである。特別な好意としてではなく、仕事の一環として、完璧さへの傾倒の延長としてである。(Telperion訳)

また、Diane Solway著『Nureyev: His Life』の索引には"teaching and coaching of dancers by"(ヌレエフによるダンサーへの教えとコーチ)という項があるくらいで、たとえばペーパーバックP.281には、1963年にロイヤル・バレエでの「影の王国」シーンを演出したとき、影の一人モニカ・メイソンに難易度の高い技をどんどんやらせたそうです。1960年代に「くるみ割り人形」で相手役となったメール・パークや1970年代に「眠れる森の美女」で相手役となったカレン・ケインは、ヌレエフのおかげでキャリアが躍進しています。ヌレエフは自分の振付を上演するとき、ダンサーを指導する機会はいくらでもあったし、十分にそれを活用したようです。

まとめ

そういうわけで、ヌレエフが監督としてバレエ団のレベルを上げたのは、新境地を開いたのではなく、それまでの経歴の延長上にあると私は思います。本当にダンサーたちと会話なしに共演していたのなら、それはパリ・オペラ座バレエが鎖国的でゲストに無関心だったせいではないのかと、私は勘ぐっています。1980年のニューヨーク・ツアーのキャンセル事件もあるし、1961年にキーロフ・バレエがパリに来たとき、フランスのダンサーがキーロフのダンサーの練習を見に来ないとヌレエフが語っていましたし(訳本P.81)。

Meyer-Stableyがパリオペ以外のバレエ団やダンサーに大して興味がないので、そちらでのヌレエフの業績を書くのを省いた可能性もありますね。別格のフォンテーンの経歴はたくさん書いていますが(訳本ではほとんどカット)、ロイヤル・バレエの扱いは、結局フォンテーンがいたバレエ団という程度ですから。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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