伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

葬儀で演奏された未完のフーガ

1993年1月12日、ガルニエ宮でヌレエフの葬儀が執り行われたのでした。そこで21年後の今日は翻訳の話から離れ、葬儀で演奏されたバッハのフーガについて語りたくなりました。

私が語りたい曲は、バッハの死後に曲集「フーガの技法」の1曲として出版されました。この曲集は未完のため、曲の順番や呼び名は確定していません。問題の曲はContrapunctus 14と呼ばれることが多いので(contrapunctusは恐らく対位法を意味するラテン語)、ここではそう呼びます。

ヌレエフに関連しての曲への言及

私の知る限りでは、ヌレエフの伝記2冊でContrapunctus 14が触れられています。

  • Julie Kavanagh著『Nureyev: The Life』ペーパーバックP.696

    a chamber orchestra played Thaikovsky and Bach, including Fugue no. 14, with one of the most abrupt endings in music, and symbolic here of Rudolf's unfinished life.

    室内管弦楽団がチャイコフスキーとバッハを演奏した。そのうちの1曲であるフーガ第14番は、音楽のうち最も唐突な終わり方をするものの一つであり、ここではルドルフの未完の人生を象徴していた。(Telperion訳)

  • Bertrand Meyer-Stabley著『Noureev』

    La fin brutale de la treizième fugue de Bach est le symbole de cette vie brisée par le sida.

    バッハのフーガ一三番の急激な終わり方が、エイズに破壊された命を象徴していた。(『ヌレエフ』P.307より)

困ったことに、著者2人とも「フーガの技法」という曲集名を書いていません。単に「フーガ○番」ではどのフーガのことかを突き止めるのは難しそうです。次の記事には曲集名が出ています。英語では"The Art of the Fugue"、イタリア語では"L'arte della Fuga"。

それでも、すでにContrapunctus 14を知っている人が上の文を読むと、ぴんと来る人はかなりいるのではないかと思います。実のところ、私は『ヌレエフ』で上の文を読んだ途端に、この曲が頭に浮かびました。私はバッハ愛好家の端くれに過ぎず、わずかしかフーガを知りませんが、夭折した人物にふさわしい終わり方をするフーガとして、あれに並ぶものがあるという気がしません。

演奏サンプル

百聞は一見に如かず。今はYouTubeでいろいろな演奏を聴けますね、ですませてもいいのですが、曲の説明に便利なのでリンクを貼ります。このリンクを選んだ理由は次のとおり。

  • 「フーガの技法」は楽器指定がなく、さまざまな楽器で演奏されています。上の2つの記事から、ヌレエフの葬儀では弦楽合奏で演奏されたと分かります。だから同じく弦楽合奏を選びました。動画は4人の演奏ですが、葬儀ではもっと多人数だったでしょう。
  • バッハの楽譜と演奏を同時に参照できる動画を多数アップロードしてくれる投稿者への感謝を込めて。

Contrapunctus 14(動画では番号が19)の開始前、4つの主題の楽譜を掲げた個所から再生されるはずです。

Contrapunctus 14の作曲技法

「フーガの技法」は曲だけ聴くより、対位法について知った上で楽譜と突き合わせて構成の緻密さに舌を巻くのに向いています。次のことを知っていると、Contrapunctus 14を一層面白く聴けます。

  • 普通のフーガでは1つの主題(短い旋律)が繰り返し現れるが、Contrapunctus 14では3つの主題が現れる。
    1. 第1主題が初めて現れるのは曲の冒頭、動画では1:14:50~1:14:59あたり
    2. 第2主題が初めて現れるのは動画では1:18:40~1:18:54あたり
    3. 第3主題が初めて現れるのは動画では1:21:16~1:21:24あたり
  • 第3主題が初めて現れるときの最初の4音であるシ♭ - ラ - ド - シは、ドイツ語ではB - A - C - H、つまりバッハ。
  • 第3主題が現れる少し前(動画では1:19:47あたりから)、第1主題と第2主題が何回か同時に奏される。また、曲が中断される寸前(動画では1:22:40あたりから)、第1主題から第3主題までが同時に奏される。

断ち切られたContrapunctus 14

「フーガの技法」の目的は、1つの主題をもとにいかに多様な手法でフーガやカノンを作曲できるかをとことん追求することです。その主題は第1曲Contrapunctus 1の冒頭(動画だと0:00:40~0:00:48あたり)ではっきり聴けます。上にリンクした2つの記事によると、Contrapuntus 1はヌレエフの葬儀で最初に演奏されました。

しかし、Contrapunctus 14に「フーガの技法」の主題は現れません。動画で楽譜を掲げられた4つの主題のうち、疑問符が付いていて色が薄い4番目の主題がそれです。この主題が組み込まれる前に、バッハの死によって作曲が頓挫したとされていますが、そもそもこの曲が本当に「フーガの技法」の曲なのか疑わしいとする説もあるようです。

しかし理由が何であれ、3つの主題が同時に奏され、作曲技法の精巧さが一つの頂点に達した瞬間にぷつんと曲が切れたときの喪失感は測り知れません。この曲を「フーガの技法」の1曲たらしめるために不可欠な主題が、あと少しで出てくるはずだったと思えばなおさらです。

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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