伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

サガンの胸を打ったもの

『ヌレエフ』P.247:
「私がスタジオにいても、ダンサーたちはおずおずと鏡に映った自分の姿に見とれていて、見慣れない私に注意を払う様子はありませんでした。一方ヌレエフは、鏡の前で休むことなく一つの動きをとても速くしかも正確に繰り返し行っていて、私はその優美な姿に打たれました。同時に冷酷で主人が召使を見るような視線で自分をコントロールしていました」
Meyer-Stabley原本:
Elle constate que les gens se regardent dans une glace avec effroi, complaisance, gêne ou timidité, mais jamais comme s'ils y voyaient un étranger. Or, ce qui la frappe chez Noureev, reprenant sans cesse un mouvement devant le miroir du studio de danse « avec une vitesse et une précision félines », c'est le regard froid avec lequel il se contrôle, regard qu'elle définit comme celui du mâitre au valet.
Telperion訳:
彼女の指摘によると、人々は鏡の中の自分を見るとき、怖がるか、うぬぼれるか、そわそわするか、遠慮するかだが、見知らぬ人を見ているかのようでは決してない。ところが、ダンス・スタジオの鏡の前で休みなく「猫のようなスピードと正確さで」動きを繰り返すヌレエフにおいて、彼女の印象に強く残ったのは、彼が自分をコントロールするときの冷たい眼差し、主人が召使に向けるものだと彼女が見なした眼差しだった。

フランソワーズ・サガンが語るヌレエフ。邦訳本『私自身のための優しい回想』(朝吹三吉訳、新潮社)で読める。

ヌレエフと対比される普通の振る舞い

最初の文でサガンは人々が鏡の中を見る態度をこう描写する。

  • avec effroi, complaisance, gêne ou timidité (恐れ、うぬぼれ、気まずさ、または気弱さをもって)
  • mais jamais comme s'ils y voyaient un étranger (しかしそこに見知らぬ人を見ているかのようでは決してなく)

鏡の外にいるサガンをどう見るかという話はしていない。そもそも原文には、étranger(見知らぬ人)がサガンだとも、gens(人々)がサガンと同室のダンサーだとも書かれていない。単なる普通の人の普通な振る舞いを述べているだけに見える。

サガンの印象に残ったのは視線

"A, c'est B."は「AであるのはBだ」という構文。原文でAはサガンの印象に残ったもの(ce qui la frappe)、Bはヌレエフの冷徹な眼差し(le regard froid)。普通の人は自分の姿に特別な感情を抱くが、ヌレエフは他人を見るかのように自分を見るのが印象的だというのが、サガンが言いたいこと。ヌレエフの優美さは二の次。

要約と引用の違い

原文の2番目の文で« avec une vitesse et une précision félines »が括弧で囲まれているのは、ここがサガンの文の引用だから。括弧で囲まれていない文は、Meyer-Stableyがサガンの文を自分なりに要約したのであり、そのまま引用したのではない。

更新履歴

2014/1/19
小見出しの追加、第1の論点の書き直し

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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