伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

マッサージを受けるのは本番直後

『密なる時』P.56:
疲労困憊で劇場を後にしたヌレエフを、彼に魅せられたマッサージ師のルイジ・ピニョティが待っていた。彼は稽古着とタイツを脱がせると、すぐ肩の上にガウンを投げかけた。ヌレエフはそれを羽織りタオルで顔を拭くと、疲れ切った体をマッサージ用のテーブルの上に横たえた。
プティ原本:
Noureev sort de scène épuisé, Luigi Pignoti son masseur attitré l'attend et après l'avoir en quelques secondes dépouillé de son pourpoint et de son maillot de danseur, lui jette un peignoir sur les épaules, Noureev s'en enveloppe, s'éponge le front d'une serviette et épuisé va s'allonger sur la table de massage.
Telperion訳:
ヌレエフは疲れ果てて舞台を出る。ひいきにしているマッサージ師のルイジ・ピニョティが待っており、数秒で胴着とダンサーのレオタードをはぎ取った後、肩にガウンを投げかける。ヌレエフはそれにくるまり、額をタオルで拭い、疲れ果ててマッサージ台の上に横たわる。

ピニョティとヌレエフの関係はビジネス上のもの

attitréは「正式な資格を持つ、ひいきの」。だからピニョティを指す"son masseur attitré"は「彼のひいきのマッサージ師」。ヌレエフはピニョティを重用していたが、特に感傷的な結びつきではない。

新倉真由美は「彼のひいきのマッサージ師」を「彼に魅せられたマッサージ師」とした。恐らくattitréをattiré(引き寄せられた)と見間違えたのだろう。

マッサージをするのは劇場を出る前

ヌレエフがマッサージを受ける前に出たのは劇場でなく舞台(scène)。実際、以下の2点から、劇場より舞台のほうがもっともらしい。

  • ヌレエフがマッサージを受けに劇場を出るよりは、ピニョティに楽屋で待機させるほうが好都合
  • ピニョティのもとに来たヌレエフは"maillot de danseur"(danseurは定冠詞leが付いていないので、ヌレエフ個人を指す言葉ではない)を着ている。maillotはタイツともレオタードとも訳せるが、いずれにせよその恰好のまま劇場を後にするのは信じにくい。

ヌレエフが脱いだのは本番舞台の衣装

また、ヌレエフはピニョティにpourpointも脱がせてもらっているが、これもヌレエフが舞台から出たばかりという状況に関係すると思う。pourpointは私の『プログレッシブ仏和辞典 第2版』になかったので、ラルース仏語辞典で意味を見つけた。

pourpoint
Vêtement masculin qui couvrait le torse, en usage du XIIIe au XVIIes.
13世紀から17世紀に使われた、胴を覆う男性の服。(Telperion訳)

そういう昔風の胴着を着るのは、古典バレエの本番の衣装を着るときに思える。

新倉真由美がpourpointを「稽古着」としたのは、マイナーな言葉なので意味を見つけられなかったか、それとも調べるのが億劫だったかで、意味を自分で推測したのだろう。しかし、最初の文を「舞台を後にした」と正しく捉えていれば、「稽古着」という訳語は選ばなかったと思う。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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