伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

亡命前のヌレエフがCIAに連絡できるとは思えない

『ヌレエフ』P.107:
ソヴィエト当局の調査書類は、ヌレエフは西側への移住の意志を持ち、クララ・サンをアメリカ人が操作しているCIAの側近にしていた明白な事実があったとしている。
Meyer-Stabley原本:
Le dossier de l'agence soviétique met en évidence le fait que Noureev avait l'intention de passer à l'Ouest, mais surtout, il fait passer Clara Saint pour une proche de la CIA, manipulée par les américains.
Telperion訳:
ソ連当局の書類は、ヌレエフに西側へ渡る意志があったことを明らかにしているが、なかでも、クララ・サンをアメリカ人に操られたCIAの関係者だと思わせている。

ヌレエフの亡命後、KGBがまとめた報告書について。クララ・サンはヌレエフが亡命するのを手助けした。

クララはCIA関係者だと決めつけられたに過ぎない

問題なのは"il fait passer"以降。この中でイディオム"passer pour ~"(~だと見なされる)が使われている。これを踏まえて問題の部分を直訳すると、「彼/それはクララ・サンがアメリカ人に操られたCIAに近い人間だと見なされるようにした」。クララが実際にCIAに近い人間にされたという文ではない。

クララをCIA関係者に仕立てたのは報告書

クララをCIAの手先だと思わせたのは、該当文の主語である男性名詞の代名詞il。これをヌレエフだと解釈するのは、文法的には問題ない。しかし、この部分の前後には、ヌレエフは事前に亡命を計画しなかったと主張していることが書かれている。そのヌレエフが、クララとCIAがつながっていると吹聴するような真似をするのは不自然。

ilが指す男性名詞としては他の候補を探すと、最初の文の主語である"le dossier"(書類)が見つかる。「書類がクララをCIAに近い人間であるように見せた」とは、書類の中でクララがCIAの人間だと書かれているという意味になる。これなら、この後に続く「書類には矛盾がある」という文ともうまくつながる。

新倉本では報告書の内容が奇抜すぎ

KGBがヌレエフの亡命をCIAの陰謀に仕立てようとしたこと自体、無理があるのだろう。しかし、西側でやっと名前が売れ始めたばかりのヌレエフがクララをCIAに送り込んだという新倉本バージョンの報告書は、あまりに実現可能性が低い。あまり無茶な報告書を作っては、中央政府の怒りを余計に買うのではと心配になるくらい。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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