伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

パリ・オペラ座の外に出たデュポン

『ヌレエフ』P.277:
パトリック・デュポンは八六年以降彼を閉め出そうとしていたし、
Meyer-Stabley原本:
Patrick Dupond a préféré claquer la porte dès 1986
Telperion訳:
パトリック・デュポンは1986年以降、足音高く飛び出すほうを好み、

ヌレエフがパリ・オペラ座監督だった時期の後期、オペラ座ダンサーとの関係が悪化した例として挙げたこと。もっとも、デュポンの自伝の訳本『パリエトワール』(林修訳、新書館)や下でリンクしたシカゴ・トリビューン紙の記事を読む限り、デュポンはヌレエフと不仲だった素振りを見せていないが。

閉め出すのでなく立ち去る

デュポンの行動である"claquer la porte"の直訳は「扉をばたんと閉める」。何冊もの仏和辞書を当たったが、この言葉について直訳以外の意味は私には見つけられなかった。しかし、フランス語の説明を探すと、"claquer la porte"の比喩的な意味の説明が見つかった。私の訳を添えて引用する。

ラルース仏語辞典
partir brusquement, irrité ou mécontent
苛立つか不満を抱き、不意に立ち去る
有志による辞書サイトWiktionnaire
(Figuré) Quitter brusquement un lieu, une réunion, voire démissionner.
(比喩)ある場所、集まりからだしぬけに去る、ことによると辞職する
フランス語wikipediaよりClaqueの項
partir(立ち去る、飛び出す)

ラルース仏語辞典のサイトに比べると、WiktionnaireやWikipediaの信頼性は落ちるかも知れない。しかし、フランス語では"claquer la porte"はイディオムの1つとして確立しているらしいという例にはなると思う。

上記の説明を原文に当てはめると、デュポンは自らオペラ座から飛び出したということになる。

外部での活動が活発だった当時のデュポン

参考までに、私の目に止まった1980年後半のデュポンの経歴をピックアップしてみる。

  • 1986年、1987年 「デュポンと仲間たち」日本&イタリア公演

    出典: 『パリ・オペラ座のマニュエル・ルグリ』(ダンスマガジン編、新書館)、恐らく個人の観劇記録サイト

  • 1987年 客演エトワール(英語ではpermanent guest artist)の契約をパリ・オペラ座と交わす

    出典: 『パリ・オペラ座 フランス音楽史を飾る栄光と変遷』(竹原正三著、芸術現代社。「三日月クラシック」の関連記事を参照)、シカゴ・トリビューン紙の記事

  • 1988年 ナンシー・バレエ(現在はCCN Ballet de Lorraine)の芸術監督に就任

    出典: CCN Ballet de Lorraineの沿革ページ

シカゴ・トリビューン紙の記事によると、"permanent guest artist"はパリ・オペラ座で年15回踊る以外は自由に行動できるそう。同じ記事を読むと、デュポンがパリ・オペラ座以外の活動場所を増やすことに力を入れていることが分かる。

実情を反映しない新倉真由美の訳語

「扉をばたんと閉める」から「締め出そうとする」を連想するのは不自然ではない。しかし、イディオムとしての"claquer la porte"の意味を見ても、外部で活躍していた当時のデュポンを見ても、原文を「デュポンがヌレエフを締め出そうとした」とは訳せない。

新倉真由美はP.252で使われている"claquer la porte"を「不平不満」と解釈している。「締め出す」よりは「不平不満を表す」のほうがまだ原語の意味に近い。ここでもそれをならっていれば、当時を知る人にはぴんとこない訳にはならなかったろうに。

更新履歴

2016/5/13
Wiktionnairreやwikipediaからの引用追加、諸見出し変更

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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