伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

ヌレエフのイメージに微妙にかかわる訳語選択

今まで「訳本の原文逸脱のせいで、ヌレエフの性格描写が気の毒なことになっている」という例をつらつら書いてきました。今回書くのは、このくらいなら訳者の裁量のうち、翻訳ミスには当たらないとは思いながらも、何となく引っかかる個所です。新倉真由美がよそであれほどヌレエフの性格に傷をつける訳文を連発していなければ、流せたかも知れません。

1. 皇帝の力とスターの気まぐれ

『ヌレエフ』巻頭:
バレエ界の帝王と言うべきスターは強大な権力を持つ一方、気まぐれでわがままな男だった。
Meyer-Stabley原本:
Tsar ou star de la danse, il eut le pouvoir de l'un et les caprices de l'autre.
Telperion訳:
舞踏の皇帝あるいはスターである彼は、前者の権力と後者の気まぐれを我が物とした。

l'unとl'autreは英語のoneとthe otherと同様、セットになるとそれぞれ「一方」「他方」という意味になります。この場合、l'unは少し前のtsar、l'autreはstarを指します。「皇帝の権力とスターの気まぐれを持った」。やりたいことをできる力を手にし、時に利己的に振るっていたということでしょうが、Meyer-Stableyはそれをなかなか格好良い言葉で述べています。

対する新倉真由美訳は、大意は同じながら、ヌレエフのはた迷惑な面を強調しているように見えます。これは個人の感想に過ぎませんが、私はMeyer-Stableyの文を読むと、「いろいろ波乱万丈なんだろう」と先を読む気をそそられますが、新倉真由美の文を読むと、「いろいろ鼻持ちならないエピソードが書いてあるのだろう」とテンションが下がります。

2. 飼いならされない

『ヌレエフ』P.169:
野性的で野良犬のような性格
Meyer-Stabley原本:
côté sauvage et indompté du personnage
Telperion訳:
その人物の野性的で飼いならされない面

記事「談話の語り手も範囲も間違い」からの引用です。飼いならされない(indompté)動物は世界に限りなくいます。慣用句になっている一匹狼とか、他にもライオンとか熊とか野生の馬とか。そのなかから新倉真由美が選んだ動物が「野良犬」。美化した言葉で言わなければならないというルールはないとはいえ、「野良犬のような」って、ずいぶんと卑小な印象ではありませんかね。新倉真由美のそういう言葉選びは、ヌレエフにケチがつく形のさまざまな翻訳ミスと無縁ではないような気がします。

3. 放言の詳細

『ヌレエフ』P.166:
「こんなあばら家めちゃくちゃにしてやる!」
Meyer-Stabley原本:
“Je ne me priverai pas de dire à Zeffirelli ce que je pense de sa baraque.”
Telperion訳:
「ゼッフィレッリにあいつのボロ屋をどう思っているかを言わずにおくものか」

招待されたゼッフィレッリの別荘に遅れて帰ったら戸締りされた後だったので、怒ったヌレエフが言い放った言葉。原文をほとんどそのまま訳したのが私の訳で、「めちゃくちゃにしてやる」は新倉真由美による翻案。

ヌレエフは実際にこの後あれこれとっ散らかしたので、新倉真由美の表現は的外れではありません。ただ、ここで書かれたことは「ヌレエフが言ったと後で目撃者が証言したこと」という制約があるので、「こう言い換えたほうが分かりやすい」といった理由で書き換えるのが妥当かどうかは、意見が分かれるところでしょう。字幕や吹替えのような、観客に短時間で分からせるために短くまとめることが至上の要件である分野なら、大ざっぱな訳でも良いでしょう。でも、これは本だし、実在の人間による実在の人間に関する証言を脚本家よろしくいじくり回すのは、私はあまり感心しません。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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