伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

新倉本が招くヌレエフの誤解(6) - ブルーンとの関係

  1. P.128 それは炎と氷の出会いであり、同時に天使と悪魔の邂逅でもあった。(「三日月クラシック」の原文比較3より)
  2. P.130 エリックに追いつき支配したがるようになった(同上)

似ている2人が対照的な2人に

第1項で、原文最初の"les deux danseurs blonds se ressemblent"(2人のブロンドのダンサーは互いに似ている)は、誤解しようがない単純明快な文。「火と氷の出会い」や「同時に天使と悪魔」は、その詩的な説明です。リンク先で引用した部分の後、さらにMeyer-Stableyは「とても美しく、男女ともに誘惑するのを楽しみ、今この瞬間を利用することを知っていた」(原文の直訳に近く訳してみました)と続けるのですが、これもMeyer-Stableyが2人の類似点と見なしたものでしょう。

ところが、訳本では引用部分が「ヌレエフとブルーンの出会いは対照的な2人の出会いだった」という意味にしか読めません。仏和辞書を引ける程度のフランス語の知識があれば誰でも訳せそうな「2人は互いに似ている」が消された理由として、「難しくて訳せないから仕方なく」はあり得ません。では見逃し、あるいは字数の都合による省略でしょうか。しかし、訳本で「彼らは天使と悪魔である」が「それは天使と悪魔の邂逅である」に書き換えられ、「2人は似ている」の抹消と同じ効果をもたらしているのを見ると、私には新倉真由美が確信的に正反対の文に書き換えたように思えてなりません。

ブルーンを支配したがるヌレエフ?

第2項では、なぜか新倉真由美は原文から単語を部分的に拾い出してつなぎ合わせ、原文の構成とはまったく関係ない文を創作しました。そのため、原本を読む前の私は「年齢で追いつくなんて不可能に決まっているのに、いくら子どもっぽい大人だとしてもそんなこと願うのか?」とびっくりしたものです。しかし原文を読んだ後でびっくりしたのは、envier(羨む、妬む)が「支配する」と訳されたらしいということ。「自分もエリックのように踊りたいのに」と「エリックを支配したい」、近い感情には見えないのですが。

エリック・ブルーンの人となり

伝記『Nureyev: The Life』(Julie Kavanagh著)はブルーンからヌレエフにあてた書簡を引用するなど、豊富な資料に当たっているらしいので、2人の関係を知るにはこの本が一番いいのかも知れません。しかしなにぶんあの本を読むのは大変だし、どのみちMeyer-Stabley本のほうが出版が前なので、Kavanagh本の内容は反映されていません。だから、もしかして実像とは違うかも知れませんが、私がブルーンについて本で読んだことを少しだけ書いてみます。

  • ヌレエフとフォンテーンの初共演が大フィーバーを引き起こしたのを見て、いたたまれなくなったブルーンが劇場から逃げ出したことは、『ヌレエフ』P.141にもあるとおり。
  • ソニア・アロワによると、1970年代のブルーンは周囲の人にきつい態度だったらしい。(記事「必ずしも人格者でないエリック・ブルーン」)
  • 『Nureyev: His Life』(Diane Solway著)のペーパーバックP.208やKavanagh本ペーパーバックP.242によると、ブルーンは生前に出版された伝記『Erik Bruhn: Danseur Noble』(John Gruen著)のためのインタビューで、ヌレエフを「君は私を殺しにロシアから出てきたんだ」となじり、言い過ぎを悔いたことを回想しているそう。
  • Solway本ペーパーバックP.208より、ヴィオレット・ヴェルディの述懐。ブルーンは酒を飲むと毒舌になるそう。
    when he drank, he became so sarcastic and hurtful.
  • Solway本ペーパーバックP.287より、ピエール・ベルジェの述懐。ヌレエフに厳しいブルーン。
    He would say to Rudolf, 'What you did tonight was disgusting, just look at yourself, look at your legs, how can you do that?' And Rudolf was absolutely like a pupil before his master.

先ほど挙げた2か所を読む限り、新倉真由美は温和なブルーンを自己中心的なヌレエフが翻弄したと思っているふしがあります。そうでも思わない限り、あの作文は説明が付きません。しかし、ヌレエフが悪魔でブルーンが天使と言えるかどうか、私は疑問です。

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プロフィール

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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