伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

新倉本が招くヌレエフの誤解(5) - 粗暴

  1. P.156 受話器を投げつけた(「三日月クラシック」の原文比較2より)
  2. 誰の前でも暴言を吐いた
  3. P.201 完璧な振舞いを愛してやまなかった(「三日月クラシック」の原文比較4より)
  4. 怒りや不満をわめきちらし地面をのた打ち回るルドルフ
  5. グラスを叩きつけ
  6. ヌレエフの凶暴さは伝聞ほどではないという証言

理解不能な飛躍

第1項は、ポータブルな電話が実用化されていない1960年代前半の出来事。だからヌレエフもティト・アリアスも、電話がかかってきたと言われると、電話を取るために食事中の部屋から出ています。ヌレエフが別室で受話器を本体から切り取り、食事をしている部屋に戻ってティトに投げつけたと新倉真由美は考えたのでしょうか。しかし原文に「受話器」に当たる言葉がないのに、そこまで想像するのはやり過ぎでしょう。

第2項は、ヌレエフが悪態をついた"devant la danseuse"(その女性ダンサーの前で)が「誰の前でも」になりました。しかし、マーガレット王女やジャクリーン・ケネディなど、ヌレエフはフォンテーンより地位が高い相手にも会っているのだから、「フォンテーンの前でそうなのだから、誰に対しても無礼なはず」と推測するのは危険です。実際、リンク先で書いたとおり、ヌレエフは相手によっては礼儀やマナーを気にします。

第3項はヌレエフの礼儀正しい振る舞いについての記述が消された例。原文の前半の"il n'y a que A que B"(BなのはAだけである)という構文は難しいし、「彼は完璧な振る舞いを取り入れた」(il adopte une conduite parfaite)をヌレエフがジャクリーンの態度を評価したと見なすだけなら、突拍子もない誤解とは思いません。しかし、後半の"sachant que l'ex-first lady n'aime pas la provocation"(元ファースト・レディが挑発を愛さないということを知っており)は簡単な分詞構文。それを新倉真由美が原形を留めないくらいばらばらにしたのは、前半とどうつながっているのか分からなかったせいではないかと疑っています。実際は、ヌレエフが礼儀正しく振る舞ったという前半の理由を後半で言っているのですが。

大味な解釈

第4項は私にとって、構文解析は楽でもMeyer-Stableyの真意をつかむのは難しい個所です。それでも、ヌレエフのイメージ形成にマリア・カラスが関係していたと書いてあること、「平手打ちをし、わめき散らし、地面を転げ回るスター」(L'image de la star qui gifle, qui tempête et se roule par terre)とは決してヌレエフだけでなく、カラスだけの可能性すらあることは分かります。Meyer-Stableyは前書きでもヌレエフとカラスを並べているし、パトリック・デュポン(訳本P.255)やヌレエフ自身(記事「マリア・カラスとの比喩はヌレエフの弁明」)もそうですね。新倉真由美や文園社がカラスに興味がないのは不思議ではありませんが、だからヌレエフが一人で暴れ回ったことにするのは、とても乱暴だと思います。

第5、6項は「落とす」(laisser tomber)、「先行する」(précéder)の訳し方が丁寧でありません。筆がこの程度すべるのは、几帳面な翻訳者にも起こりうるかも知れませんが。

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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