伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

数百万人のロシア人や中国人がいるソ連?

『ヌレエフ』P.102:
家族や数百万人のロシア人や中国人がいる祖国のこと。そこで過ごした日々、私はいつも孤独でちっぽけな一人の男でしかありませんでした」
Meyer-Stabley原本:
J'ai pensé à ma famille, à mon pays ; j'ai pensé qu'il y avait des millions de Russes et même des millions de Chinois, et j'ai pensé que j'étais là, tout seul, tout petit... rien qu'un homme.
Telperion訳:
家族のこと、祖国のことを考えました。何百万ものロシア人、同じく何百万もの中国人がいることを考え、自分がここにいることを考えました。まったく一人、まったくちっぽけで…一人の人間に過ぎないのです。

亡命するかどうか最終決定したときのことを回想するヌレエフ。

何と関連してロシア人や中国人のことを考えたか

原文の第2文「何百万ものロシア人や中国人がいることを考えた」(j'ai pensé qu'il y avait des millions de Russes et même des millions de Chinois)と前後の文を区切る記号を見てみる。

  1. 第1文「家族と祖国のことを考えた」(J'ai pensé à ma famille, à mon pays)との間を区切るのはセミコロン
  2. 第3文「私はここにいる、まったく一人、まったくちっぽけだと考えた」(et j'ai pensé que j'étais là, tout seul, tout petit)との間を区切るのはコンマ

セミコロンはコンマとピリオドの中間のような記号。ピリオドのニュアンスが加わる分、セミコロンのほうがコンマより文を区切る意味は強い。だから第2文とのつながりがより強いのは、第1文でなく第3文。ヌレエフが第2文で中国人を引き合いに出したのは、大勢いる民族を挙げることで、第3文で説明する孤独感を強調するため。

過去でなく現在を考えるヌレエフ

"j'ai pensé que j'étais là,"は間接話法なので、ヌレエフが考えたこと(que以降)は時制の一致や語句の転換を経ている。ヌレエフの考えを分かりやすくするために、この文を直接話法に書き換えると、"j'ai pensé : « je suis ici,»"(私は「私はここにいる」と考えた)となる。つまり、ヌレエフが考えたのは、一人きりで部屋にいる現在のこと。

新倉真由美の文の不自然な点

新倉真由美は第2文の「数百万人のロシア人や中国人」を第1文の「祖国のことを考えた」に結び付け、祖国の説明にしている。その結果、私は訳本を読んだとき、「ソ連に中国人が数百万人もいるはずがないのだが」と奇異な印象を受けた。仮に「数百万人の」がロシア人だけを修飾すると解釈しても(原文でははっきり"des millions de Chinois"とあるが)、ソ連にいる中国人をここで話題にすること自体が奇異。

更新履歴

2012/11/9
「新倉真由美の訳文の不自然な点」の部分を独立させ、引用文の背景説明を追加
2014/1/18
主に箇条書きや小見出しの追加による書き換え

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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