伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

プティ・ラットの意味

『ヌレエフ』P.252:
しかし登場するや新しいボスはトラブルも怒りも不平不満もなくコールド、コリフェ、カドリーユ、プルミエ・ダンスーズ、そしてエトワールに仕事を戻した。*3
Meyer-Stabley原本:
Mais dès son entrée en scène le nouveau « boss » remet au travail les petits rats, les coryphées, les quadrilles, les premiers danseurs et les étoiles. Pas d'esclandres, pas des colères, pas de portes qui claquent*...
Telperion訳:
しかし舞台に登場した途端、新しい「ボス」はバレエ学校の生徒、コリフェ、カドリーユ、プルミエ・ダンスール、そしてエトワールを仕事に戻した。騒ぎもなく、怒りもなく、扉が手荒く閉められる誰かが出て行くこともなかった…。

監督に就任したヌレエフが仕事をさせたダンサーたちのランクを列挙しているが、先頭の"petit rat"だけは、パリ・オペラ座バレエのダンサーのランクではない。手持ちの『プログレッシブ仏和辞典第2版』でratを引くと、こうある。

petit rat (d'Opéra)
オペラ座のバレエ練習生: 公演ではエキストラに起用される

この書き方だと、コールドと呼んでもいいような気もする。しかし、もっと専門性が高い情報源に当たると、"petit rat"はバレエ団と仮契約をしているとかいうのではなく、パリ・オペラ座付属のバレエ学校に所属する生徒だということがはっきりする。

  • 『パリのエトワール』(パトリック・デュポン著、林修訳、新書館)でプティ・ラットという通称とその意味に触れている。呼び名の発祥ははっきりしないらしく、説が2つほど挙げてあった。
  • パリ・オペラ座バレエのサイトにあるバレエ学校の沿革紹介ページで生徒たちを« petits rats »と呼んでいる。
  • ラルース仏語辞典サイトでpetit ratが載っている
    petit rat
    jeune élève (garçon ou fille) de l'école de danse de l'Opéra de Paris.
    パリ・オペラ座バレエ学校の若い生徒(少年または少女)。(Telperion訳)

新倉真由美の文の不自然な点

パリ・オペラ座バレエの群舞ダンサーであるコールド・バレエは、カドリーユ、コリフェ、スジェの総称。「コールド、コリフェ、カドリーユ」では、コールドという言葉に含まれるコリフェとカドリーユがまた名指しされることになる。自然な表現は「スジェ、コリフェ、カドリーユ」か、単に「コールド」だけだろう。

正直言って、このpetit ratは間違えても仕方ないかなと思うし、間違えても影響が大きいわけではない。しかし、パリ・オペラ座バレエに詳しい人が『ヌレエフ』の読者になることは多いと思われ、そのなかには「コールド、コリフェ、カドリーユ」という列挙に変な気になる人がいても不思議はない。翻訳が原因で訳文に違和感を覚える個所は取り上げるポリシーなので、あえて記事にした。

ばたんと閉まる扉

上の見出しは、原文最後の"de portes qui claquent"の直訳。これが何の比喩なのかは私は断言できないし新倉真由美の「不平不満」に違和感もない。だから本来ならこの部分の対訳は載せないのだが、この言い回しについて別記事でいずれ書いてみたいので、参考のために前もってこの部分も載せておいた。

更新履歴

2013/12/11
パリ・オペラ座サイトの構成変更に伴い、プティ・ラットに触れたリンク先を変更
2014/1/18
「扉がばたんと閉まる」が何の比喩なのかが分かったのに伴い(参照: パリ・オペラ座の外に出たデュポン)、私の訳を修正
2014/3/18
小見出し「ばたんと閉まる扉」に取り消し線を引く。この言い回しの意味が判明した後では必要ない内容になったので。

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プロフィール

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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