伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

ヌレエフは妥協案も含めて撤回した

『ヌレエフ』P.290:
私はケネス・グレーヴをエトワールとしても規定通り三年間は契約しません。
Meyer-Stabley原本:
Je n'engagerai pas Kenneth Greve comme étoile ni pour trois ans comme c'était convenu.
Telperion訳:
ケネス・グレーヴェをエトワールとして雇うことも、取り決めたように3年間雇うこともしません。

ヌレエフが無名の若手ダンサーをいきなりエトワールにしようとしたものの、ダンサーたちの強硬な反対にあって断念したときの発言。

否定したのは期間が異なる2つの雇用

記事「契約書を書くときの困難の列挙」でも書いたが、niは「Aを否定する文 ni B」という形で使い、AもBも否定するための単語。

  • Aに当たるのは"comme étoile"(エトワールとして)
  • Bに当たるのは"pour trois ans comme c'était convenu"(決められたように3年間)

"je engagerai Kenneth Greve"(ケネス・グレーヴェを雇う)の後ろにAが付いた文とBが付いた文、2つを否定している。

「エトワールとして」と「3年間」を並べる理由は、エトワールの地位はひとたび獲得したら、定年までそのままだということと関係があるのだろう。ヌレエフは「通常のエトワールとして定年まで雇うことも、3年間雇うこともない」と言っているように見える。

3年契約は規定でなくヌレエフの構想

「3年間」(pour trois ans)に続く「"comme c'était convenu"(これが取り決められたように)は、この文で最も解釈が難しい。3年間のエトワール雇用に関する規定がどこかにあるのか?それとも今回そういう決定が一度は下されたのか? 期間限定エトワールの前例を私は聞いたことがないので、それについての規定はありそうに思えず、後者のほうが可能性が高いと思った。しかし原文だけでは確信できず、他の資料を探したところ、見つかった。

  • Julie Kavanagh著『Nureyev: The Life』ペーパーバックP.633より

    It was Rudolf calling Paris offer him a three-year contract as an étoile.

    それはパリから電話してきたルドルフで、ケネスにエトワールとしての3年契約を申し出たのだった。(Telperion訳)

  • 1989年7月1日のルモンド紙の記事より

    les danseurs lui faisaient savoir qu'ils n'appréciaient pas son intention d'engager comme étoile, pendant trois ans, un "étranger" au sérail.

    ダンサーたちは、3年間「よそ者」をハーレムでエトワールとして雇おうとするヌレエフの意志を認めないということを彼に知らしめた。(Telperion訳)

「3年間エトワールにしたい」とはヌレエフの発案。この事件をまとめて読めるKavanagh本によると、ヌレエフはグレーヴェをエトワールにすると言い出した最初から、3年間と言っている。ヌレエフにとって監督たる自分の発案は決定事項に等しかったので、自分の思いつきを「取り決めた」と呼んだのではないかと思う。

未練がましい新倉真由美のヌレエフ

ヌレエフにしてみれば、3年間のエトワールというのは、無名な部外者をエトワールにしやすくするための妥協案だったのだろう。しかし大反対された末に、3年間でもそうでなくてもグレーヴェをエトワールにしないというのは、完全に白旗を揚げたと言っていい。

新倉真由美訳の「三年間は契約しません」という言い方だと、「3年間は契約しないが、3年経ったらその限りではない」という、まだあきらめていないような印象を受ける。

更新履歴

2016/5/5
小見出し変更

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

プロフィール

Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

カテゴリ
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
タグ

マーゴ・フォンテーン エリック・ブルーン ノートルダム・ド・パリ パトリック・デュポン マリア・トールチーフ ミック・ジャガー 

全記事表示リンク

全ての記事を表示する