伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

初日を踊るのは第一線で踊るより重い

『ヌレエフ』P.255:
芸術監督であり振付家、運営者、教師でもあったルドルフが第一線で踊りたいと言い出したときだった。
Meyer-Stabley原本:
lorsque Rudolf, déjà directeur artistique, chorégraphe, administrateur et eiseignant, se met en tête de vouloir danser aussi toutes les premières.
Telperion訳:
すでに芸術監督、振付家、管理人、そして教師だったルドルフが、すべての初日も踊りたいと心に決めたときだった。

監督就任が順調に滑り出してしばらくしてから、ヌレエフとダンサーたちに最初のもめごとがおきたとき。

バレエの文脈での名詞premièreは「初日、初演」。初日に踊るということは、そのバレエ団のベスト・キャストとして認められるという特別なこと。新作の世界初演となればダンサーの経歴として認められるし、オペラ座初演はもちろん、再演ですら初日のファースト・キャストとそれ以外のキャストは重みが違う。

パリ・オペラ座のダンサーたちは、ヌレエフにダンサーとして上に立たれるのを嫌う。1980年にヌレエフを目玉ゲストに仰ぐアメリカ・ツアーに大反対してツアーをキャンセルさせたことは、SolwayやKavanagh著のヌレエフ伝記はもちろん、『パリのエトワール』にも書いてある。また、Solway著の伝記『Nureyev: His Life』ペーパーバックP.460によると、ヌレエフは就任前にこんな取り決めをしたという。

As a concession, Nureyev agreed not to dance the first nights of any full-length ballets with the Paris company.

譲歩としてヌレエフは、パリのバレエ団との全幕バレエのどれも、初日は踊らないことに同意した。(Telperion訳)

今回、ヌレエフが初日に出演するのに猛反発するのは当然。

「第一線で踊る」とは、中心的な位置で踊ることではあるが、主役の一人として踊るという程度のことも表せる。初日に踊るダンサーは役ごとに一人だけなのと比べると、他のダンサーを差し置いてのいいとこ取りという印象は薄い。

新倉真由美の文の不自然さ - ヌレエフの望みは前から明らか

ヌレエフは監督就任前に、「私はダンサーの仕事を辞める気はなく、タイツもバレエシューズも脱いでいません」(訳本P.251)と公言している。なのに「第一線で踊りたいと言い出した」と、それまでその望みを口にしたことがなかったかのように説明するのは、私には奇異に思えた。ダンサーたちもなぜそれまで黙っていたのかということになる。

初日の重さが伝わらない新倉本

「初日を踊る」だけではその重さが分からない読者のために、別な言葉を使うという選択はあるかもしれない。しかし新倉真由美あるいは文園社は、"persona non grata"(P.75)、ジェット族(P.142)、ジェラバ(P.238)など、多くの言葉に独自の説明を付けている。ここでもう一つ訳注を追加しても不都合はないだろう。もし訳注を使わないなら、「先頭に立って」くらい強い言葉にしないと、特権的な地位をヌレエフが望んだということは伝わらないと思う。

実のところ、私が新倉真由美が「初日」の重さを知った上で熟慮の末に「第一線」と訳したとは思っていない。それというのも、新倉真由美は初演という概念に無頓着な訳を繰り返しているから。いくつか挙げてみる。

  • 「三日月クラシック」にも書いたが、巻末の監督任期中パリ・オペラ座バレエの上演作品リスト(訳本P.313-315に相当)に"création à l'Opéra"という言葉が多数ある。すでによそで上演された作品をオペラ座で初上演するという意味。しかし新倉真由美の訳語は「オペラ座作成」。
  • 同じリストに多数ある"création mondiale"は、新作の世界初公開という意味。新倉真由美の訳語は「ワールドプレミア」。「ワールド・プレミア」は映画界で新作を披露する試写会を指し、"création mondiale"は本番での披露となる。「ワールドプレミア」は「オペラ座作成」よりは本来の意味に近いとはいえ、同じ概念ではないと思う。
  • 記事「振付作品数は初演作品数と再演作品数の合計」で、初演(動詞créerや名詞création)と再演(動詞reprendreや名詞reprise)の区別がついておらず、再演作品を「振付作品」とか「改訂版」とか呼んでいる。

初演の意味をこれだけ見逃しているのに初日の意味を分かっているとは、私には考えにくい。今回は慎重に「誤解を招きやすい個所」扱いにはしたが。

更新履歴

2016/5/7
諸見出し変更

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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