伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

バレエ音楽軽視の現状を変えるため

『ヌレエフ』P.308:
音楽的に言えばバレエのレパートリーは限られているので奇抜な考えでもないのだが、ルドルフは知名度と才能を生かし、指揮者への転職を考えていた。
Meyer-Stabley原本:
Tout cela n'est certes pas étranger au fait que le répertoire du ballet est plus limité, musicalement parlant. Rudolf, avec sa célébrité et son talent, pensait être en position de changer cet état de fait.
Telperion訳:
確かにこういったことすべては、音楽的に語るとバレエのレパートリーの方が限られているという事実と無縁ではない。ルドルフは自分の知名度と才能を用い、この状況を変えられる立場にあると考えた。

晩年のヌレエフが指揮者としての活動を始めた動機について、「その上本気でバレエの発展に寄与したいと考えていた」(訳本P.296)に付いた注の一部。

ヌレエフが変えたかったこと

"être en position de ~(不定詞)"は「~できる立場にある」というイディオムなので、ヌレエフが考えたことである"être en position de changer cet état de fait"は、「この"état de fait"を変えられる立場にある」となる。

"état de fait"は私には仏和辞書で見つからず、原文で解釈が最も難しい。étatに「職業」という意味があるので、新倉真由美は"de fait"(事実の)を省き、ヌレエフが変えることを考えたのは自分の職業だと思ったらしい。しかし、étatには「状態」という意味もある。そして実は、"état de fait"という言い回しはラルース仏語辞典に載っている。

État de fait
réalité, situation qu'on ne peut que constater.
現実、認めるしかない状況 (Telperion訳)

また、Meyer-Stableyは他の場所でもこの言い回しを使っている。"état de fait"の使い方を分かりやすくするために原文の表現をなぞった私の訳と共に、訳本と原本を引用する。

『ヌレエフ』P.161:
異端児ジャン・バビエはフランスに依存していたため状況は旧態依然としたままだった。
Meyer-Stabley原本:
l'extraterrestre Jean Babilée reste trop confiné à la France pour changer cet état de fait.
Telperion訳:
宇宙人ジャン・バビレはこの状況を変えるには、フランスにあまりに閉じこもったままだった。

"cet état de fait"は前の文とのつながりから、その前に書かれた状況を指すと推測でき、新倉真由美もそう解釈している。だから問題の部分でも、"cet état de fait"はその前に書かれた状況を指すと推測できる。直訳は「この事実の職業」でなく「この事実の状態」だと見なすべき。

バレエのレパートリーの限定と関係あること

最初の文は私の訳がほぼ直訳であり、解釈する上で最も重要なのは、主語"Tout cela"(これのすべて)が指すのが何かということ。多分新倉真由美は"Tout cela"が次の文の内容、「ルドルフは~を変えることを考えた」を指すと解釈している。しかし以下の理由から、前の文の内容を指すと見なす方が、原文のすべてを尊重したまま自然な論理の文を作れる。

  • celaは前の文の内容を指すほうが多い言葉。
  • 2番目の文が「ルドルフは前の文で書いた状況を変えることを考えた」なのに、最初の文が「次の文で書くことは、バレエのレパートリーのほうが限定されている事実と無縁ではない」だと、何を言いたいのか意味不明になる。
  • 引用部分の前にある文は、簡単に言うと「オーケストラと指揮者がバレエに熱心でないという印象をヌレエフが持っていた」。最初の文である「バレエのレパートリーのほうが限定されているという事実と無縁ではない」という説明にも合うし、2番目の文でいう「この状況」としても合う。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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