伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

自重を強いられたヌレエフ

『ヌレエフ』P.278:
ルドルフはこの頃から体の衰弱を意識し始め、もはや喧嘩に費やす時間はなかった。彼はよく「フランス人達はチャーミングでベラベラ意味なくしゃべりまくっている」と皮肉っていた。
一方彼のガルニエ宮の改革はオペラ座の怒りを買ってしまった。
Meyer-Stabley原本:
Rudolf a surtout désormais conscience de sa fragilité et n'a plus de temps à perdre en querelles de personnes. Avec ses proches, il ironise toujours en disant : « Les Français, c'est charming et bla-bla-bla-bla-bla ! » Pourtant, la révolution de palais gronde à l'Opéra.
Telperion訳:
ルドルフは特にこの後、自分の弱さを意識して、もう誰とも喧嘩で失うべき時間はなかった。近しい人との間では、彼はいつもこう言って皮肉っていた。「フランス人はチャーミングで無駄口ばっかりだ!」しかし、オペラ座ではトップ交代の機運が高まっていた。

1988年、監督ヌレエフに対する内部の不満がまた高まったことについて。

ヌレエフの皮肉は内輪に留まる

引用部分の前でこそ、ヌレエフはマスコミを通して「バレエ団が私を好きかどうかはどうでもよい」と好戦的で、Meyer-Stableyに"sans effort de diplomatie"(外交努力なく)と言われている(訳本ではこの論評は消えた)。しかし、フランス人を皮肉ったのは、「彼の近しい人たちとの間で(Avec ses proches)」。つまり、喧嘩に失う時間をなくしたヌレエフは、親しい人間の前で憂さを晴らした。

だからこそ、オペラ座で渦巻くヌレエフへの不満に触れる文の前に、原文では「しかし(Pourtant)」が付く。ヌレエフが皮肉を公言していたら、「だから不満が高まった」でなければ論理的でない。ヌレエフが公の場では喧嘩を避けたから、「しかし不満が高まった」なのだ。

ただ「皮肉った」だけだと、その前に好戦的な公開コメントが引用されているせいで、この皮肉も大っぴらなものに見える。しかし、ヌレエフはオペラ座で何度も妥協や挫折を強いられている(ヌレエフ版「白鳥の湖」の翌シーズンはブルメイステル版を上演とか、Kenneth Greveのエトワール任命を断念とか)。判で押したように放言ばかりしているわけではないことは、きちんと伝えるべき。

ヌレエフの改革がやり玉に挙がったのではない

  1. 最後の文の主語"révolution de palais"は文字通りには「宮殿の革命」だが、これは「政権交代、首脳交代」というイディオム。
  2. 述語の動詞gronderは「うなる、まさに起ころうとしている、不満を言う」。主語が首脳交代なので、この場合は「まさに起ころうとしている」が適切。

新倉真由美がpalaisをガルニエ宮だと早合点したのが誤訳の原因だろう。しかし「ガルニエ宮の改革」という解釈には、おかしな点が2つある。

  1. ガルニエ宮のフランス語は"le Palais Garnier"、つまりPalaisは大文字で冠詞がつく。一方、原文のpalaisは小文字で冠詞がない。
  2. 引用部分の後で列挙されるヌレエフへの不満は、「多すぎる不在」「自分の振付優先」「踊り過ぎ」。これらは改革者ヌレエフが抱える欠点とは呼べても、「ガルニエ宮の改革」とは呼べない。「改革が怒りを買った」とは、「序列を軽視して若手を抜擢するとはけしからん」とか、「外部から多くの振付家を招待するのが気に入らない」とか、ヌレエフの業績そのものへの怒りを指すのではないだろうか。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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