伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

冗談を浴びせて破滅させた?

『密なる時』P.8:
彼は懸命に生き、強烈な皮肉交じりの冗談を浴びせかけては相手を動揺させ、破滅に追い込むことさえあった。芸術と生きることにあらん限りの愛を注ぎ、その生涯を通じ死に至るまで、並外れた力でありとあらゆるものをむさぼり食い尽くしていった。そして、その過剰さのあまりに命を落としたのだった。
プティ原本:
un homme brûlant la vie avec le travail, l'humour ravageur qui déstabilisait son interlocuteur, l'amour de son art et de la vie, dans laquelle il mordait à pleines dents avec excès jusqu'à en mourir.
Telperion訳:
仕事をもって、相手を動揺させる攻撃的なユーモアをもって、芸術と命への愛をもって、命を燃やした男だった。死に至るまでの過剰さで命にがつがつとかじりついていた。

プティがこれから語ろうとしているヌレエフ。最初に"un homme brûlant la vie"(命を燃やす男)と呼び、次に彼の特性、または命を燃やすための手段を列挙している。見やすくするために関係節を省いて並べてみる。

  • le travail(仕事)
  • l'humour ravageur(被害を与えるユーモア)
  • l'amour de son art et de la vie(彼の芸術と命の愛)

被害を与えるユーモア

2番目の「被害を与えるユーモア」には関係節"qui déstabilisait son interlocuteur(相手を不安定にする)が付いている。また、形容詞ravageur(荒らす、被害を与える)は、畑を荒らす害獣などに使う。ヌレエフのユーモアは、言われた相手がダメージを受けるようなきついものらしい。

しかし「破滅に追い込むことさえあった」と言えるほど激烈なものには見えない。そもそも、誰かがヌレエフから皮肉交じりの冗談を浴びせられたせいで破滅したという話は、『密なる時』でも『ヌレエフ』でも、さらにはDiane Solway著『Nureyev: His Life』でも見かけない。ravageurの訳語としては、「強烈な皮肉交じりの」で十分でないだろうか。畑を荒らす害獣が畑を二度と耕作できない荒れ地にするとは限らない。「破滅に追い込む」という容易ならぬ言葉を導き出すには、「被害を与え」「不安定にする」はあまりに弱い。

ヌレエフがかじりついたもの

最後の「芸術と人生の愛」には関係節"dans laquelle il mordait à pleines dents avec excès jusqu'à en mourir"が付いている。関係詞laquelleが使われているので、関係節が修飾する先行詞は単数の女性名詞。この場合は直前の"la vie"(命)。

関係節では"mordre dans ~"(~をかじる)という表現が使われており、先行詞である命はヌレエフがかじる対象。新倉真由美は前置詞dansの次にある言葉がかじる対象だと気づかなかったのか、"la vie, dans laquelle"を「その人生を通じ」とし、さらに原文にない「ありとあらゆるもの」という目的語を創作した。

私はプティの表現「過剰にがつがつと命にかじりつく」を「人生を最大限に享受し、欲しいものにくらいつく」のように受け取っているので、私なら「ありとあらゆるものをむさぼり食い尽くす」とは言い換えない。プティが描くヌレエフは踊りが第一で、たくさん収集した室内装飾品も、回数は多い性欲発散も、みな踊りに比べれば二の次。Meyer-Stableyが『Noureev』で描くヌレエフはもっと物欲旺盛だが、気に入った特定範囲のものを山ほど欲しがるというスタイルであり、あらゆるものを欲しがるのとは少し違う気がする。

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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