伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

ヌレエフを語るとき野獣を引き合いに出す意味

『密なる時』P.80:
ある日ヌレエフは、野獣のように夕食のキャビアをがつがつと食べ終えると、私に何か書くものが欲しいと言ってきた。彼は私をつなぎ止め、彼がバレエの総指揮をしているオペラ座に話をつけ、すぐにでも具体的な契約を交わそうとしていた。
プティ原本:
Le fauve après un bref dîner au caviar me demanda de quoi écrire, il voulait immédiatement m'attacher par un contrat détaillé qui me lierait à lui, à l'Opéra de Paris dont il tenait les rênes du ballet,
Telperion訳:
野獣はキャビアの夕食を手短にすませた後、書くものを私に要求した。彼に、そして彼がバレエ団を掌握しているパリ・オペラ座に私を結び付ける詳細な契約により、ただちに私をつなぎとめたかったのだ。

野獣という言葉が使われた理由

「野獣」(le fauve)は最初の文の主語で、ヌレエフのこと。Meyer-Stableyは自著で好んでヌレエフをそう呼ぶが、プティが『Temps Liés avec Noureev』でヌレエフをこう呼んだのは、ここだけではないかと思う。しかしその代り、プティはヌレエフを"le monstre"(怪物)とか"le monstre sacré"(聖なる怪物)とかと何度も呼んでいる。"monstre sacré"は仏和辞書に「大スター」という意味で載っており、才能の素晴らしさゆえに迷惑な行動が不問にされる人々を指すのだろう。よく使われる言い回しを取り入れただけとはいえ、ヌレエフを怪物と呼ぶプティが、ヌレエフの一筋縄でいかない性格を念頭に置いて野獣と呼ぶことは不自然ではない。

原文でディナーに触れたのは"après un bref dîner au caviar"(キャビアのある短い食事の後)。食事が短いからといって「がつがつ食べた」とは言い切れない。それに「野獣」は主語に使われているというだけで、食事の描写に特に結び付いているわけではない。この文から「野獣のように夕食を食べた」と導けるなら、同じように「野獣が吠えるような大声で要求した」とも導けるし、「野獣のような貪欲さで私をつなぎとめようとした」もありかも知れない。何が野獣のようなのかを原文から確定するのは無理なのだから、読者に委ねられた想像を訳者の想像で限定するべきではない。

オペラ座の果たす役割

ヌレエフが契約によってプティをつなぎとめようとした先は、前置詞àで述語lierait(つなぎ止める)につながっているlui(彼)と"l'Opéra de Paris(パリ・オペラ座)"の2つ。パリ・オペラ座はプティがつながる先として取り上げられている。実際、1988年12月にプティのマルセイユ・バレエはオペラ座で公演を行っている。オペラ座はヌレエフが話を付ける相手として触れられたのではない。

夕食と契約はいつごろのことか

「ある日」にあたる語句は原文にない。プティとヌレエフは前の段落で和解してすぐに夕食を共にし、契約書作成に至ったように見える。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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