伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

ダンサーたちの頑固さの度重なる強調

『密なる時』P.40-41:
しかしイギリスのダンサーたちは、隣国のフランス人ほどその冒険にすばやく順応しなかった。
その作品が難しかったとはいえないが、床をはうようして(原文ママ)踊ることに抵抗を示すダンサーたちを、そういう斬新な方法で踊らせるのはほとんど不可能だった。
プティ原本:
Mais voilà, les danseurs anglais étaient moins prompts à l'aventure que leurs voisins les Français.
C'est peu dire que le travail était ardu, il était quasiment impossible de faire se mouvoir différemment ces artistes, réfractaires à toute reptation.
Telperion訳:
しかしなんと、イギリスのダンサーたちは冒険に挑むのがフランスの隣人よりなお遅かった。
仕事が困難だったなどという生易しいものではない。這うのを何だろうと嫌がるこのアーティストたちに違った動きをさせるのは、ほぼ不可能だった。

プティがフォンテーンとヌレエフとロイヤル・バレエのために、奇抜な振付の「ペレアスとメリザンド」を創作した時のこと。ここで触れられたフランス人とは、「ペレアスとメリザンド」と似た手法の「トゥーランガリラ」を初演したパリ・オペラ座のダンサーたち。

冒険に順応させるのが大変だったフランスのダンサーたち

プティも新倉真由美も、イギリスのダンサーはフランスのダンサーより冒険に消極的と書いている。決定的に違うのは、フランスのダンサーがどれくらい冒険に積極的だったかの描写。

プティ
ここのすぐ前で「トゥーランガリラ」に触れたとき、「踊らせるのに多大なエネルギーと外交手段を要した」と書いている。
新倉真由美
  • ここでは、まるで冒険に素早く順応したかのように書いている。
  • この前では、プティがエネルギーと外交手段を使ったのは稽古場の整備であり、ダンサーたちは従順に踊ったような書き方をしている。

プティが言いたいのは断じて「フランスのダンサーは順応力が高いが、イギリスのダンサーはそうではない」ではない。「あのさんざん手を焼かせたフランスのダンサーより、イギリスのダンサーはもっと言うことをきかなかった」なのだ。

高校英語で"A whale is no more a fish than a horse is."(馬が魚でないのと同じくらい、クジラは魚でない)という構文を習った人は多いと思う。新倉真由美はいわば、これを「馬は魚だが、クジラは馬ほどは魚でない」と訳したようなもの。「踊らせるのに苦労した」を理解できなかったことが、後々まで響いた。

難しかったという言い方は不十分

新倉真由美の「その作品が難しかったとはいえないが」に当たる原文はこれ。

C'est peu dire que le travail était ardu,

直訳は「仕事が難しかったということは、少なく言うことだ」といったところ。"C'est A que B(文)"(BだということはAだ)という構文を使っている。ここで迷うのが、「少なく言う」(peu dire)の意味。手掛かりとして、次のイディオムに注意してほしい。

C'est peu dire.
こう言うだけでは十分でない。

直訳は「これは少なく言うことだ」。上の文とこのイディオムの直訳を見比べると、「少なく言うことだ」=「十分な言い方ではない」だと類推できる。

文を読み進めれば分かるとおり、プティが難しさを強調したのは、自分の振付を踊らせるという過程。だから最初に、作品(œuvre)でなく仕事(travail)と呼んでいる。

更新履歴

2014/9/26
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プロフィール

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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