伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

棺を運んだ6人を愛したのは

『ヌレエフ』P.308:
恐らくオペラ座で最も愛されたダンサーたち六名。
Meyer-Stabley原本:
Sans doute les six danseurs qu'il aimait le plus à l'Opéra.
Telperion訳:
恐らく彼がオペラ座で最も好いていた男性ダンサー6人。

前置き

訳本でのこの部分の不明瞭さについて、以前メールで問い合わせをいただきました。絶対に誤解すると言い切れない個所も取り上げようと私が決めたのは、そのメールに後押しされたことが大きいです。ありがとうございました。遅くなりましたが、この部分について記事を公開することにします。

本題

ヌレエフの葬儀で棺を運んだ6人の男性ダンサーについて。新倉真由美の「オペラ座で最も愛された」を読むと、「オペラ座の観客に最も人気があった」という意味だと思いたくなる。しかし原文を読むと、aimait(好きだった)の主語はil(彼)。

不特定の一般人を指すフランス語の代名詞として最も一般的なのはon。場合によっては代名詞nous(私たち)やvous(君たち、あなたたち)やils(彼ら)も使われる。しかしilにもそういう用途があるという記述を私は見つけていない。『プログレッシブ仏和辞典第2版』では、ilsと違ってilは不特定の人を指さないという位置づけ。私の乏しいフランス語読解の経験でも、ilが不特定の人を指す使われ方を見たことはない。「ilは不特定の一般人を指す」という仮説には無理があると言わざるを得ない。

したがって、「彼」とは特定の一人の男性を指す。この場合は明らかにヌレエフ。新倉真由美の文でも「ヌレエフに愛された」と解釈するのが絶対不可能とまでは言わないが、何の迷いもなくそう解釈することはできないと思う。

6人のダンサーとヌレエフのかかわり

この6人はそれぞれがヌレエフに評価されており、Meyer-Stableyが「ヌレエフが愛した」と呼ぶ理由がある。もっとも、動詞aimerは軽い好意も指すらしいので、「愛した」は大げさな訳語かも知れない。

シャルル・ジュド
1974年の「ヌレエフと仲間たち」(またはその前身)の出演者としてヌレエフに選ばれた。ヌレエフ版の1983年「ライモンダ」、1984年「白鳥の湖」、1986年「シンデレラ」を初演。個人的に心を動かされるエピソードは、ヌレエフが「ラ・バヤデール」全幕初演後に病を押してサン・バルテルミーに行ったとき、ソロル役を投げうって同行したということ(Diane Solway著『Nureyev: His Life』、Julie Kavanagh著『Nureyev: The Life』より)。
マニュエル・ルグリ
ヌレエフがどうにかして出演させた1983年のヌレエフ版「ライモンダ」初演で注目を浴びたこと、パリ・オペラ座バレエの威信をかけた1986年のニューヨーク・ツアーで短縮版「ライモンダ」の主役として急きょ登板し、その舞台でエトワールに任命されたことは、『パリ・オペラ座のマニュエル・ルグリ』(ダンスマガジン編、新書館)に詳しい。典型的なヌレエフ世代。
ジャン・ギゼリ
1974年の「ヌレエフと仲間たち」(またはその前身)の出演者としてヌレエフに選ばれた(Julie Kavanagh著『Nureyev: The Life』より)。1978年にヌレエフ振付「マンフレッド」の初演で、負傷したヌレエフに代わって主演。1983年にヌレエフ版「ライモンダ」のアブデラムを初演。ヌレエフとの共演が多いのは、ルドルフ・ヌレエフ財団サイトでヌレエフの演じた作品の列挙を見渡すだけでも分かる。
カデル・ベラルビ
1989年の「眠れる森の美女」で、ヌレエフが監督を辞任した後の監督代行パトリス・バールとエフゲニー・ポリアコフによってエトワールに任命される(「三日月クラシック」より)。実際、ヌレエフ辞任の翌月に「眠れる森の美女」の公演がある。バールとポリアコフはヌレエフ監督時代のメートル・バレエであり、任命にはヌレエフの意図が働いたと思われる。
ウィルフリード・ロモリ
1984年「白鳥の湖」初演にスペインの踊りで出演、1992年の「ラ・バヤデール」初演にブロンズ・アイドル役で出演、ヌレエフが配役を決めたという1995年収録「ロミオとジュリエット」にベンヴォーリオ役で出演。
フランシス・マロヴィク
上に書いた「ラ・バヤデール」初演に大僧正役で出演、1988年収録「シンデレラ」に監督役で出演。

更新履歴

2014/9/17
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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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