伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

病のヌレエフに必要な数々の行為

『密なる時』P.92:
そこでは密かに死への準備をしながら延命治療が行われていた。憔悴、生への執着、抑圧からの解放。傷口を解いてはまた縫い合わせ、機械が役に立たなくなると、病室では声をひそめてモルヒネの使用について囁やかれる(原文ママ)ようになった。
プティ原本:
Là il faut graisser, étirer, nettoyer, aspirer, débloquer; ici découdre pour recoudre et quand la machine ne veut plus rien entendre, les infirmières à voix basse parlent de morphine.
Telperion訳:
あちらでは油を塗り、伸ばし、清潔にし、吸引し、緩める必要があった。こちらでは縫い直すために縫い目をほどく必要があり、機械が何も理解しようとしなくなると、ナースたちが低い声でモルヒネのことを語った。

必要な5つの行為

セミコロンまでの第1文は、"Là il faut ~(動詞)"(そこで~する必要がある)という単純な構文で、使われる動詞は5つ。仏和辞書にある意味を下の表に載せる。

プティ原文の動詞仏和辞書にある意味新倉真由美の解釈
graisser油を塗る密かに死への準備をする
étirer伸ばす延命治療を行う
nettoyer清潔にする憔悴
aspirer吸引する、熱望する生への執着
débloquer緩める抑圧からの解放

このうち、aspirerは自動詞だと「熱望する」、他動詞だと「吸う」という2通りの意味がある。だが他4つの動詞が他動詞だし、aspirerは少し前にヌレエフが使っていた医療器具の説明で「吸引する」という意味で使われているので、ここでも「吸引する」だと思う。débloquerは「固まったものを再び動くようにする」というニュアンスがある言葉。graisser、étirer、nettoyerは、表にある意味がほぼすべてといってよい。

プティがこれらの動詞で何を言いたいのか、解釈はとても難しい。少し後に「ナースがモルヒネのことを話す」と書かれていること、少し前にヌレエフが体液を吸引してもらっていると書かれていることから、私はヌレエフの体が機能不全に陥るのを防ぐための様々な医療処置について語っているのだと思う。プティは直前で「ヌレエフが少しずつロボットに変わっていく」と書いているが、「油を塗る」「清潔にする」はさびついたロボットを動かす手段になりそうだし、「伸ばす」「緩める」は固まりつつある体をやわらかくすることとも想像できる。しかし残念ながら、自分の解釈に確信があるわけではないので、私は直訳のままにした。

新倉真由美による5つの動詞の解釈

新倉真由美の訳文でも5つの行為が書かれているので、上から順に並べたものを上の表に加えている。プティは5つの動詞を区別せず能動態で一気に並べているので、どれも同じ動作主による行為のはずだが、新倉真由美は病院側の行為とヌレエフの感情を混ぜている。また、「伸ばす」を「延命治療をする」に、「緩める」を「抑圧から解放」に言い換えるのはまあ可能かも知れないが、「熱望する」(先ほど書いたとおり、私はaspirerをそう解釈しないが)を「生への執着」に言い換えるのは、原文にないものの付けたしのように見える。「油を塗る」を「死への準備をする」にするのは、どこか別な文化圏の話のよう。「清潔にする」が「憔悴」になる経路は、私には想像できず、プティの原文が完全にそっちのけに見える。

第2文にある動詞の原形2つ

セミコロンの後のdécoudre pour recoudreは動詞の原形であり、完全な文ではない。これも前の動詞5つと同じく、"il faut"の目的語なのだろう。フランス語では「あちらこちら」という意味でlà(そこで)とici(ここで)を並べることがよくあり、最初の文がlà、次の文がiciで始まることも、2つの文に強いつながりがあることをうかがわせる。

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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