伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

降板する気はないヌレエフ

『密なる時』P.61:
「僕以外で誰か都合のつくダンサーに振り付けたらどう? 僕なら1週間もあれば練習できるけど」
プティ原本:
« Why don't you choreography on anybody practical to you, I will learn it in one week *. »
* « Pourquoi ne répètes-tu pas la chorégraphie avec quelqu'un de plus disponible, je l'apprendrai en une semaine. »
Telperion訳:
「もっと自由に使える誰かに振り付けたらいい。僕は1週間で覚えるよ」

ヌレエフのための新作バレエ「オペラ座の怪人」の稽古をちっとも始めないヌレエフが、稽古の開始を要求したプティに言ったこと。

これを誤訳とは呼ばないが、原文では感じない紛らわしさが気になる個所なので、取り上げることにする。

ヌレエフの言葉にある稽古の意志

英語の助動詞willは「~だろう」という未来の出来事を表す。主語が自分の場合、「~しよう」という意志を表すことも多い。

もっとも、英語ネイティブでないヌレエフがwillを辞書どおりの意味で使っているとは限らないかもしれない。現にその前の文で、ヌレエフは名詞choreographyが動詞扱いというブロークンな英文をしゃべっている。しかしプティによるフランス語訳を見ても、"will learn"に相当するapprendraiの時制は直説法単純未来。プティはヌレエフが将来やるつもりのことを話しているのだと受け取っていることがうかがえる。

つまり、ヌレエフの「1週間で振り付けを覚える」とは、「早く稽古に来てくれないと新作バレエの振付ができない」と急かすプティへの本気の提案。「あなたが別の誰かで振付を完成させ、それを僕が1週間で覚えれば、あなたは振付を創作できるし、僕は稽古時間を減らせる」というわけ。

引用文の後、プティは「私は彼のいいなりにはならず」(Je n'ai pas cédé)と続けるが、これは「そんな無茶な稽古ができるか」という意味の拒否なのだろう。結局「オペラ座の怪人」は別キャストで発表されることになる。

新倉真由美の文から見える降板の可能性

新倉真由美訳が原文(英文も仏文も)の直訳と違う点は、まず次の2点。違いはかなり微妙なもの。

  • 「練習する」が「練習できる」になった
  • 「僕なら」という仮定文になった

そしてこれを上回る微妙な違いとして、語尾の「けど」がある。この語尾のせいで、ヌレエフがまだ何か言いたそうに見える。私が想像した「練習できるけど」の続きは、「練習なんかしてやらない」とか、「あなたは練習に数週間もかかるダンサーのほうがいいんだよね、ご苦労様」とかいったところ。

つまり、私には「他のダンサーに振り付けたら?」は、自分は新作バレエから降りるという宣言または脅しであり、「僕なら1週間で練習できるけど」は単なる能力自慢に見える。

「僕なら1週間もあれば練習できるけど」を私がもし英訳するなら、現実とは異なる仮定を示す仮定法現在を使った"I could learn it in one week."にするだろう。フランス語ならプティの文にある直説法単純未来でなく、条件法現在を使うと思う。つまり私にとって、新倉真由美の文とヌレエフの英文・プティの仏文との間には、少しとはいえ差異がある。

プティの文は、細かいところでも気を抜けない。「作者」の訳が抜けるとか、「贈り物」の訳が抜けるとか、「ポワントのダブルフェッテをしない」とするべきところが「ダブルフェッテをできない」になるとか、そういう小さなことで、原文と違う意味が紛れ込んでくる。だから厳格に訳せる部分はそうするべきと思う。

更新履歴

2014/7/12
段落分けを細かくする、小見出しを追加するなど

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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