伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

話題を監督業から闘病に切り替える文

『ヌレエフ』P.270:
彼にとり一九八七年は特別な意味があった。
Meyer-Stabley原本:
Mais pour lui, en cette année 1987, le temps est compté.
Telperion訳:
しかし彼にとってこの1987年、残された時は少なかった。

ヌレエフのパリ・オペラ座バレエ監督としての成功をひとまず語り終えた後、ヌレエフのエイズ闘病について語り始めるための前置き。

"le temps est compté"の直訳は「時は数えられる」で、この表現そのものは私は仏和辞書で見つけていない。しかしcomptéの原形である動詞compterを引くと、「Ses jours sont comptés 彼(女)は余命いくばくもない」というイディオムがある。その主語を"ses jours"(彼または彼女の日々)から"le temps"(時)に変えたのが引用文。Meyer-Stableyは同じ意味で書いていると思われる。

もう1つの使用例

"le temps est compté"という表現はMeyer-Stabley本のもう1か所で見つけた。

『ヌレエフ』P.304:
新人のマエストロは刻々と時間が無くなっていく恐怖をうまく追い払うため、新たな挑戦に身を捧げようとしていました。
Meyer-Stabley原本:
Le nouveau maestro a surtout besoin de se projeter dans l'avenir, de s'offrir de nouveaux défis comme pour mieux exorciser le fait que le temps lui est compté.
Telperion訳:
新たなマエストロには、自分に残された時間がわずかだという事実を追い払いやすくするかのように、自分を未来に投影し、新たな挑戦を自分に与えることがとりわけ必要でした。

逝去が約1年後に迫ったヌレエフが指揮活動を始めたことについての談話。"le fait que le temps lui est compté"は余命の少なさを指しているのだと推測しやすい。だから最初の引用部分も同じ意味だと考える方が自然だろう。

なお、細かいことだが、"s'offrir ~(名詞句)"は「~を自分に奮発する」。もし「~に自分を捧げる」なら、"s'offrir à ~"となるはず。ここでヌレエフが奮発するのは名詞句"de nouveaux défis"(新たな挑戦)。

新倉真由美の文の不自然な点

Meyer-Stabley本を信じるなら、1987年は患者としても監督としても、ヌレエフにとって特別な出来事はない。

  • 1984年の検査でHIV陽性が判明したヌレエフは、1988年までは治療のおかげで小康状態だった。
  • 監督としては1986年にニューヨーク・ツアーの成功と「シンデレラ」のパリでの好評で評価を確実にし、1988年までは特にトラブルもなかった。

なのに「1987年は特別な意味があった」と言われても、何のことか分からない。

ただし、この年はヌレエフがソ連に戻って母と再会するという大きな出来事があった。しかし、監督の業績の記述が一段落した後、病について初めて本格的に触れる節目となる文で、どちらとも関係がないソ連帰国を話題にするとは考えにくい。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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