伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

ヌレエフの偶像でなく観客の偶像

『ヌレエフ』P.295:
観衆は彼の偶像に最後になるであろう喝采を惜しみなく贈った。
Meyer-Stabley原本:
Le public vient ovationner pour la dernière fois peut-être son idole.
Telperion訳:
観客は自分たちのアイドルに恐らく最後の喝采を浴びせに来た。

idole(アイドル、偶像)に付いている所有代名詞sonは、「彼の」という意味のこともよくあるが、厳密には「単数の三人称代名詞で表される人または物の」。この場合の単数の名詞とは、主語である"le public"(観客)。原文では、観客が自分たちのアイドル、ヌレエフに喝采を送るという、普通の情景を述べている。

しかし、新倉訳「彼の偶像」はヌレエフの偶像を指すように見える。複数の人びとである観衆を「彼」と呼ぶことは、日本語ではありえないから。ましてやヌレエフの観客には女性が大勢いるのだから。観客が拍手するのはヌレエフ本人なのに、ヌレエフの偶像に拍手するとは、何だかよく分からない表現。

『密なる時』ではまともな扱いの"son idole"

この文は明らかに、プティ著『Temps Liés avec Noureev』にある次の文のパクリ。この部分は記事「不満足な練習の原因は観客への不誠実ではなかった」で取り上げた。

le public venait pour applaudir son arrogante performance et ovationner peut-être pour la dernière fois son idole.

邦訳本『ヌレエフとの密なる時』では、"son idole"が「彼らの偶像」と訳された。sonが「観客の」だと新倉真由美が正しく認識していることが分かる。

また、同じ本にある下記の部分でも、idoleに付くsonが指すのが単数名詞"la salle"と呼ばれる観客たちであることが、新倉本からも理解できる。

『密なる時』P.33:
客席は総立ちになり、その偶像に惜しみない喝采を贈った。
プティ原本:
la salle était debout pour acclamer son idole.

なのになぜ『ヌレエフ』ではこういう訳になってしまったのだろうか。

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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