伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

ベルジェの任命はヌレエフへの圧力の始まり

『ヌレエフ』P.290:
ヌレエフにはもう切り札がなかった。ついにイブ・サンローランのピエール・ベルジェ社長の呼びかけにより、組織の構築…再構築が開始された。
Meyer-Stabley原本:
Mais Noureev n'a plus tous les atouts en main à l'Opéra de Paris, car les cartes ont été redistribuées. Cela commence par la nomination de Pierre Bergé, président d'Yves Saint Laurent, pour organiser... la réorganisation.
Telperion訳:
しかしヌレエフはもはやパリ・オペラ座で切り札をすべて揃えてはいなかった。なぜなら、カードが配り直されていたからだ。その始まりとなるのが、イヴ・サンローランの社長ピエール・ベルジェの任命で、その目的は編成…再編成だった。

1989年の夏(訳本P.288より)、ヌレエフがパリ・オペラ座バレエに外部からKenneth Greveをエトワールとして迎えようとしたために起きた騒動を説明した後に来る文。New York Times紙の記事によると、この騒動は6月に起きた。

nominationを「呼びかけ」とは訳せない

仏和辞書にあるnominationの意味は「任命、指名、ノミネーション」。ここでは1988年9月にベルジェがオペラ座を統括するポスト"président de l'Opéra de Paris"に就いたことを指す。この任命は1988年9月2日のルモンド紙で報じられている。見出しに載ったポスト名は"président des Théâtres de l'Opéra de Paris"で、こちらが正式名かも知れない。

Meyer-Stableyが不親切にもこの役職を書かないせいで、ベルジェがどういう立場でヌレエフと対立しているのか、原本を読んでもよく分からない。とはいえ当時のベルジェがオペラ座内部にいるのは本から察しが付くので、仏和辞書にない「呼びかけ」よりは、何らかの役職に就いたことを示す「任命」のほうが妥当な選択だった。

ゲームの局面を変えたのはベルジェの任命

第2文の中核となる文"Cela commence par la nomination"は「これはまず任命から始まる」。主語Cela(これ)は直前で述べられたカードの配り直し。状況の変化をカードゲームになぞらえるのはフランス語では珍しくないらしく、仏和辞書のcarte(カード)の項にそういう言い回しがいくつか載っている。ベルジェの任命は何かの結果ではなく、ヌレエフの状況が変化する最初の兆候だった。

なお、ヌレエフが切り札を失ったことを述べる第1文は部分否定文で、「すべての切り札を持っている」ことを否定している。つまり、ヌレエフは切り札を減らしたものの、切り札を残らず失ったわけではない。

ベルジェの関与が始まるのは騒動前

最初に書いたとおり、引用した文は1989年夏の説明に付いてくる。だから「ヌレエフには切り札の一部がなかった」も同時期と見るのが自然。

原文では「切り札の一部がなかった」の時制は直説法現在。一方、「カードが配り直された」の時制は直説法複合過去で、直説法現在の時点より過去のこと。つまり、カードの配り直しはすでに行われていた。実際、ベルジェの任命は先ほど書いたように1988年9月で、Greve騒動よりだいぶ前。

訳本ではなぜか「ついに」があるせいで、相次ぐトラブルにたまりかねたベルジェが立ち上がったような印象を受ける。しかしベルジェの行動はそこまで遅くない。

2014/1/15
nominationの説明を最初にするなど、文の順序の入れ替えを中心に書き換え

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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