伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

クジラのいる場所がアンヴァリッドから海岸に

『密なる時』P.59:
それはまさに私が、ヌレエフと傷を負い弱々しく陸に打ち上げられた鯨との共通点について発言した時だった。パリジャンたちはこぞって波打ち際へ急ぎ、海の巨獣を見ることを切望していた。ただ単に「そこに行ってそれを見てきた」と言うためだけに。
プティ原本:
C'est à ce moment précis que j'ai pris la parole pour raconter la similitude entre Rudolf et la baleine exposée sur la place des Invalides, les Parisiens se précipitaient, ils voulaient tous visiter le géant des mers, pour simplement pouvoir dire « j'y étais et je l'ai vue ».
Telperion訳:
ルドルフとアンヴァリッドの広場に展示されたクジラが似ていることを語ろうとして私が発言したのは、ちょうどこの時だった。パリの人々は押し寄せ、皆が海の巨獣を見物したがっていた。単に「そこにいてあれを見た」と言えるようになるために。

クジラのいる場所

クジラがいる場所の説明のなかで特に目立つ言葉はInvalides。invalideは形容詞「体の事情で働けない」、または名詞「体の事情で働けない人、傷痍軍人」。新倉真由美はクジラの形容だと思ったらしいが、Invalidesは定冠詞lesが付いているから(直前のdesは"de les"の縮約形)、複数形の名詞であり、クジラと合わない。また、頭文字が大文字であることから、何か特別な固有名詞のように見える。

ある程度パリに詳しい人なら、"les Invalides"とはルイ14世が傷病兵のために建設した由緒ある施設アンヴァリッドだと分かると思う。現在、アンヴァリッドの一部は軍事博物館として公開されている。exposerは「展示する」。placeの意味はいろいろあるが、アンヴァリッドの一部であり、クジラが展示されているのだから、「広場」が妥当だろう。

Invalidesの意味以外でも、新倉真由美の解釈にはいろいろな無理がある。

  • 「波打ち際」という言葉は原文にない。
  • placeの意味がいろいろあると言っても、「陸」という意味はない。
  • exposerには「展示する」の他に「さらす、陳述する」といった意味があり、「打ち上げられた」と解釈できるか怪しい。

また、新倉真由美の書き方では、パリが海岸に面しているかのようだが、もちろん実際はそうでない。セーヌ川沿岸を「波打ち際」とは言わないだろうし、クジラがパリまではるばるセーヌ川をさかのぼることもありそうにない。『Temps Liés avec Noureev』を翻訳中に『Noureev』をルーブル美術館で見つけた新倉真由美は、いくら何でもパリの場所くらい知っているはず。どこかよその海岸に向かってパリ市民が出かけたという解釈なのだろうか。

プティによるヌレエフの呼び名

プティはこの本でヌレエフの名を出すとき、Noureev、Rudolf、Monsieur Noureevという3通りを使い分けている。なぜか『密なる時』では、Rudolfが恐らくすべての場所で「ヌレエフ」に置き換えられている。なかでも、プティがヌレエフに直接呼びかけるとき(『密なる時』のP.59とかP.90とか)、原文が"Rudolf,"なのに訳本が「ヌレエフ、」なのには、特に違和感がある。『ヌレエフ』ではルドルフもヌレエフも原文に応じて使われているが。

強調構文

"C'est A que B"は「BなのはAである」という強調構文。「ちょうどこの時、ルドルフとクジラの共通点を語った」という文の語順を「ルドルフとクジラの共通点を語ったのは、ちょうどこの時だった」と入れ替えている。

「この時」とは、その日の公演のヌレエフが不十分な出来に見えた時。プティがクジラの話をしたのはそのせいだろうから、「それは私がルドルフをクジラにたとえた時だった」より「私はルドルフをクジラにたとえたのはその時だった」のほうが、公演のヌレエフがクジラ話につながるという因果関係を表せていると思う。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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