伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

すぐにはヌレエフと夜遊びできなかったプティ(2)

『密なる時』P.50-51:
しかしヌレエフはここでも精力的に行動し、仕事が終わるや否や気分転換のためにいろいろなことを計って(原文ママ)くれた。イタリア的な異国情緒は私の飽くなき好奇心を満足させてくれた。スカラ座で『エクスタシー』の作品にかかわっている以外の時はどんどん過ぎていったが、夜は長く感じられた。
ある日、ヌレエフは私に夜のミラノを見せたいと言ってきた。
プティ原本:
Mais voilà, Noureev était occupé ailleurs et me laissait, une fois le travail terminé, organiser seul ma vie de distraction, un peu d'exotisme italien m'étant nécessaire afin de satisfaire ma curiosité insatiable. Le temps passait et à part mes heures d'Extase à la Scala, les soirées me semblaient bien longues.

Jusqu'au jour où le monstre me proposa de me faire visiter son Milan by night.
Telperion訳:
しかしまあ、ヌレエフはよそにかかりきりで、ひとたび仕事が終わると、私が一人で気晴らしの暮らしを計画するままにしておいた。私の飽くなき好奇心を満たすには、私にはイタリアの異国情緒が少しばかり必要だった。時は経ち、スカラ座での「エクスタシー」の時間を除くと、夜はとても長く思えた。

それが終わりを告げたのは、怪物が自分の知る夜のミラノに私を行かせようと申し出た日だった。

プティをほったらかしたヌレエフ

「夜のミラノで面白い場所をヌレエフが見せてくれるだろう」と期待したプティ。ところが、原文第1文で主語Noureevに続く述部は次の2つ。

  1. était occupé ailleurs (別のところで忙しかった)
  2. me laissait organiser seul ma vie de distraction (私が私の気晴らしの生活を一人で準備するのに任せた)

つまり、ヌレエフは仕事を終えるとプティから離れてしまった。プティにとって夜が長かったのは、一人ではうまく暇をつぶせずに退屈したせい。

稽古時間は長くなかった

原文の第2文は、次の2つの文がet(そして)でつながれている。

  • Le temps passait. (時は過ぎた)
  • les soirées me semblaient bien longues. (夜はとても長く思えた)

"à part mes heures d'Extase à la Scala,"(スカラ座での「エクスタシー」の時間以外)はetより後にあるので、2番目の文に含まれる。つまり、「エクスタシー」の稽古時間をプティは長いと思わなかった。

新倉真由美は「スカラ座での時間以外」が「夜が長く思えた」でなく「時が過ぎた」にかかっていると思ったらしい。しかしそれだと、稽古中は時が止まっていたというありえない文になる。そこで新倉真由美は単なる「過ぎた」を「どんどん過ぎた」と言い換え、つじつまを合わせたつもりなのだろう。動詞passerに「早く過ぎる」という含みはないのだが。

それでもつじつまは合わなかった。『密なる時』P.53には、プティとヌレエフの「エクスタシー」創作は「時間がとても早く流れていった」とあるのだから。なのにここでは時間の進みが遅いと書かれていることになり、矛盾する。

勿体つけて書かれたヌレエフの申し出

最後の文の直訳は、「怪物が私に彼のミラノを訪れさせようと私に申し出た日まで」。これは前の文の「夜はとても長く思えた」につながるものであり、プティが退屈な夜を持て余すのがヌレエフの申し出によって終わったのを示している。前の文との間に空行を挟んでいるのは、「この夜に至るまでの前置きは終わり!この夜の刺激的な見せ物についてたっぷり書くぞ!」というプティの意気込みの表れかも知れない。

新倉真由美(あるいは新風舎)はプティの空行による段落分けをだいたい尊重しているようだが、ここでは空行を省き、改行のみの段落分けにしている。新倉真由美にとってヌレエフとプティは最初から遊び回っていたので、ヌレエフの申し出は書く前に空行を入れるほどの大層な出来事に思えなかったのかも知れない。しかしそれなら、仕事が終わるといろいろ計画しているはずのヌレエフが今さら「夜のミラノを見せたい」と言い出すのはおかしいということにもなるのだが。

不明な部分 - 少しの異国情緒が必要

第1文の"un peu"から文末までは、私にはプティの意図が分からず、やむなく直訳のままにした。ヌレエフが一人で出かけてしまうためにプティが異国情緒を少しすら味わえていない可能性を否定できないので、「必要だった」(étant nécessaire)を「満足させてくれた」とまで踏み込んで訳すのは危険かなと思う。

更新履歴

2014/9/21
最初の2題を分かりやすさのため大幅に書き換え

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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