伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

ヌレエフのニヒルな発言とブルーンとの疎遠の関係

『ヌレエフ』P.151:
ルドルフは観客の方に顔を向けながら唇の端を上げるようにして答えた。
「マーゴット、君は僕がどこにいても幸せだったことなんて一度もなかったのを知っているじゃないか」
二つの愛に生きる
フォンテーンが“小さなジンギス・ハーン”と呼んでいた彼は、エリック・ブルーンとの距離に苦しんでいた。
Meyer-Stabley原本:
Souriant au public Rudolf répond presque du bout des lèvres : « Margot, tu sais que je ne serai jamais heureux nulle part. » Le « petit Gengis Khan », comme l'appelle Fonteyn, souffre en fait cruellement de l'éloignement d'Erik Bruhn.
Telperion訳:
観客に向かって微笑みながら、ルドルフはほとんど嫌々ながら答えた。「マーゴ、僕がどこにいても決して幸せにならないだろうということは知っているだろう」。フォンテーンが呼ぶところの「小さなチンギス・ハーン」は、実はエリック・ブルーンと疎遠になったことに残酷なまでに苦しんでいた。

この記事で書きたい本題は、「間違いとまでは言わないが分かりにくい個所」に含まれる。しかし、間違いと言える個所もあるので、そちらを先に書いておく。

間違った個所

  1. "du bout des lèvres"は文字通りには「唇の端から」といったところだが、これは「仕方なく、しぶしぶ」というイディオム。「自分の本心を口にするのにためらいがないはずがない」とMeyer-Stableyが推測したのかも知れないし、フォンテーンが自伝でそう書いたのかも知れない。
  2. ヌレエフの発言について「三日月クラシック」にコメントしたときはよく分からなかったが、やはり直説法単純未来の時制の文を過去のことのように訳すのには無理がある。

誤解を招く個所

上記の文は、原本では同じ段落の中でひとつながりになっている。ヌレエフがブルーンとの不和で痛手を受けたことを説明する文には、"en fait"(実は)という前置きが付いている。"en fait"が「その理由は実は」なのか、それとも「前に言ったことと違って実は」なのかは確信を持てないが(前者のほうが分かりやすいとは思う)、前に書かれたヌレエフの言葉との間に関連があることを示す言葉なのは確か。こうして原本をひといきに読むと、ヌレエフがフォンテーンにニヒルに答えたのは、ブルーンとの不和で苦しい気持ちだったせいだとMeyer-Stableyが思っていることが分かる。

しかし訳本では、いくつかの理由から、ヌレエフのニヒルな発言とブルーンとの関係悪化は無関係な別々のエピソードのように見える。このため、ヌレエフがニヒルな理由が、引用部分の前にある「ヌレエフは孤独で深いところでは決して満たされない」からに見える。つまり、外的要因はなく、ひとえにヌレエフの性格の問題だと。

  1. 発言と次の文の間に小見出し「二つの愛に生きる」が割り込んだ。だから「今までの話題はもうおしまいで、これから別の話に移る」という印象が生まれる。
  2. 前の文からの続きであることを示す「実は」が抜け落ちた。
  3. ヌレエフの言葉が「幸せだったことはない」という過去の回想になった。「もう未来に幸せはない」に比べ、「今まで幸せだったことはなかった」は、破局の苦悩をストレートに吐き出しているように聞こえにくい。

Meyer-Stableyは章の中には本文しか書かない。『ヌレエフ』で章の中にいくつかある小見出しは、すべて新倉真由美か文園社のオリジナル。小見出しが挟まれるせいで本が取っつきやすく見える傾向はあり、一概に否定しようとは思わない。しかしここだけは、小見出しのせいで本文が損なわれたと強く感じる。

勘のいい人は、小見出しに邪魔されても、「実は」がなくても、2つの事柄の関連を感じ取れるかも知れない。しかし、その難易度はかなり高いと思う。

アレクサンドル・カルダが語るヌレエフからブルーンへの熱情

引用文の後、ヌレエフとブルーンの距離が少しずつ広がっていったことが書かれた後、次の文が続く。

訳本P.152:
ルドルフと親しい作家アレクサンドル・カルダは、ダンサーの内にある“絶望的な探求”を強調した。

原本で“絶望的な探求”に当たるのはcette « quête désespérée »(この「必死な探求」)。「この」(cette)が付いていることで、必死な探求とは何なのかは説明済であること、つまりブルーンへの満たされない思いを指すことが分かる。単なる「絶望的な探求」では、初めて触れられた概念であり、先ほどのブルーンと無関係なように見える。

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プロフィール

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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