伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

ヌレエフの姿勢を逃げだと思ったプティ

『密なる時』P.71:
ヌレエフは、もし危険極まりない悪魔のような同盟契約に彼が署名したことを同業者たちが知ったら、自分が孤立してしまい、もはや踊ることは不可能になるのではないかとひたすら恐れていた。そのため、どんなに乗り越えがたく見える状況でも、できる限り立ち向かおうとしていた。こうして彼は障害をどうにか回避し、困難を軽減していった。
プティ原本:
Rudolf avait si peur de ne plus danser et d'être mis à l'écart si la profesesion apprenait qu'il avait signé un pacte avec le diable, qu'il faisait en sorte de mettre à ses mesures toutes les situations qui lui semblaient insurmontables, il évitait les obstacles et allégeait les difficultés.
Telperion訳:
もし悪魔との契約に署名したことを同業者に知られたら、二度と踊れなくなり避けられてしまう。ルドルフはそれを非常に恐れていたため、乗り越えがたく思えるすべての状況を自分相応になるようにし、障害を避け、困難を軽くした。

1983年、ヌレエフとプティが何年も絶交する引き金を引いた「ノートルダム・ド・パリ」ニューヨーク公演の稽古の様子。

仏文解釈

強い恐れに取りつかれたゆえにヌレエフがしたこととして、最初に挙げられたのは、"faisait en sorte de mettre à ses mesures toutes les situations qui lui semblaient insurmontables"。文を2つの部分に分け、それぞれについて説明する。

faisait en sorte de
「~になるようにしていた」。イディオム"faire en sorte de ~(不定詞)"(~なるようにする)の直説法半過去形。
mettre à ses mesures toutes les situations qui lui semblaient insurmontables
前の部分に続く不定詞。イディオム"mettre A(目的語) B"(AをBという状態にする)を使っている。
  • A(目的語)に当たるのは"toutes les situations qui lui semblaient insurmontables"(彼には乗り越えがたく思えたすべての状況)
  • B(状態を表す語句)に当たるのは"à ses mesures"(彼に釣り合った)
Bの方が短いために、原文ではAとBの順序が逆になっている。

これらをまとめると、「彼には乗り越えがたく思えたすべての状況を彼に釣り合ったものになるようにした」となる。

なお、ヌレエフがした2番目と3番目のことである「障害を避けた」(évitait les obstacles)と「困難を軽くした」(allégeait les difficultés)は、仏文和訳の上で難しい点はない。

プティを失望させたヌレエフの行動

上記の説明だけでは、ヌレエフが具体的に何をしたのか分からないので、引用部分の後も読み進める。すると、プティは「だからヌレエフはカジモドを踊っていた(ただし原文ではNoureevでなくRudolf)」と続け、その様子を「手抜き」「私を失望させ」「私をまったく軽視していることをあてつける表現なのではないだろうか」(いずれも『密なる時』より)などと酷評する。

そのことを踏まえて引用部分を見返すと、プティがヌレエフの行いとして挙げた3つのことは、いずれも自分を高めて困難を克服するのではなく、困難さのほうに手を加えることでその場をしのぐという表現だと気づく。つまり、振付の難しい部分を省いて踊りやすくするということ。

ヌレエフが署名した契約とは

「悪魔と契約を結ぶ」という言い回しはフランス語にもあり、その「悪魔との契約」に当たるフランス語が"un pacte avec le diable"。通常は「悪魔と契約する」といえば、欲望のために人でなしに成り下がることだろう。しかし、契約への署名が知られた結果である「踊れなくなる」「避けられる」は、別なことが原因で実際に当時のヌレエフが直面していた脅威だった。

  • 『ヌレエフ』P.275を読むと、初めてミシェル・カヌシ医師のもとを訪れた1983年当時、ヌレエフはHIV陽性の噂が流れてアメリカに入国できなくなることを恐れていたと書かれている。引用文で書かれているのはまさに1983年のニューヨークでのこと。
  • HIV陽性のヌレエフと共演するのを嫌がるダンサーが続出するという恐れを抱いても不思議はない。

恐らく「悪魔との契約に署名する」とは、HIVに感染したことを指す。1983年はまだHIV陽性という診断が確定する前だが、カヌシの診断を仰ぎに行ったことで分かるとおり、ヌレエフは体の異変をすでに自覚している。

更新履歴

2014/6/20
  • 文法説明を詳細にする
  • 悪魔との契約について書き直し

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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