伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

写真から受ける印象と実際のずれ

『ヌレエフ』P.282:
彼自身も激しく感動していたに違いない。しかし二六年間にわたり追放されていた神童の帰還…その場面はあまりに型どおりだったかもしれない。
Meyer-Stabley原本:
Une image tellement chargée d'émotion qu'on l'a cru, lui aussi, violemment ému. Vingt-neuf ans d'exil, le retour de l'enfant prodige... La scène était sans doute trop évidente. Trop convenue.
Telperion訳:
あまりに感動のこもった写真なので、彼もまた激しく心を動かされていると信じられた。29年間の追放、神童の帰還…。恐らくこの場面は明白に過ぎた。型どおり過ぎた。

亡命後初めてソ連に一時帰国したヌレエフが、西側に戻る前に別れのあいさつをする写真について書かれた後の文。

当時写真を見た人とMeyer-Stableyの違い

「彼もまた激しく心を動かされていると信じた」(l'a cru, lui aussi, violemment ému)のはon、つまり不特定の人々。この場合は写真を見た人たち一般ということになる。「彼もまた」とあるのは、この感動こもった写真を見た人たちが感動したからで、「傍観者の自分が感動するのだから、当事者ヌレエフの感動はさぞ大きかったことだろう」というもっともな推測を示している。

それに続く文がMeyer-Stableyの論評。最初こそ「追放された29年、神童の帰還…」と情に訴える書き方だが、すぐに「恐らく明白に過ぎた。型どおり過ぎた」と突き放した書き方になる。それにはれっきとした理由がある。この直後に引用されるインタビューで、ヌレエフは祖国への帰還に感動できなかったことを語っているからだ。「明白に過ぎた、型どおり過ぎた」とは、「追放された29年、神童の帰還…」という予備知識から生まれる先入観が原因で、本当にヌレエフが感動したのかの判断が困難になったことを指しているのだろう。

フランス語では過去のことを現在形で語るのは普通らしく、この本の叙述文のほとんどが直説法現在の時制で書かれているが、「人々は信じた(a cru)」の時制は直説法複合過去。その理由は断言できないが、写真を見た人々がヌレエフも感動したと信じたとしても、ヌレエフの話を聞いた後ではそう信じることはできなくなったからではないかと思う。写真はヌレエフが西側に戻るのを報じる新聞に同時に載っても不思議はないが、ヌレエフがインタビューで幻滅を語るのはそれより後になるだろうから。

新倉真由美の文の不自然な点

新倉真由美の書き方では、「感動していたに違いない」と思っているのがMeyer-Stableyにしか見えない。ヌレエフが感動しなかったのを知っているMeyer-Stableyがこんなことを書くのは、実に不自然。

新倉真由美が原文にない「しかし」を入れたのは、感動していたに違いないはずのヌレエフがこの後で幻滅を語るという奇妙な事態をなるべく自然に見せようとしたためかも知れない。しかしこの言葉がその助けになっているのか、私には疑問。

Meyer-Stableyのミス - ソ連に帰れなかった年数

ヌレエフは1961年に亡命し、1987年にソ連に一時帰国した。だから追放されていたのは、訳本どおり26年が正しい。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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