伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

ヌレエフはパトリック・デュポンのバレエに懐疑的

『ヌレエフ』P.259:
バレエ以外の分野でも間違いなくスターになるでしょう」
Meyer-Stabley原本:
Il sera certainement une vedette, de la danse ou d'autre chose »
Telperion訳:
もちろんスターになるでしょう、バレエか他のことで」

ヌレエフによるパトリック・デュポン評の締めとなる言葉。

一見ささいな「そして」と「または」の違い

原文で"de la danse"(踊りの)と"d'autre chose"(他のことの)をつなぐ接続詞はou(または)。このため、ヌレエフはデュポンを「スターになるだろう」とは明言しているものの、バレエのスターになるとは断言していないことになる。

新倉真由美はouをet(そして)であるかのように訳している。どちらも非常によく使われる接続詞であり、ありがちな見間違いのように見える。しかし、引用した原文の周りの文を見渡すと、それだけのことには見えなくなってくる。

この言葉はヌレエフが起こしたトラブルの例

ヌレエフがエトワール任命を観客に公開したことを書いた段落の後、原本ではその段落の倍近い長さの段落が続く。ざっと要約すると、「しかしヌレエフはまもなく周囲と衝突する性格に逆戻りした。物を投げたり、公の場でダンサーを批判したり、振り付けた『ワシントン・スクエア』が不評だったり。そしてついにベジャール・ヌレエフ事件が起きた」。そしてヌレエフのデュポン評は、以下の部分の後に丸括弧で囲まれて引用されている。

Meyer-Stabley原本:
il y a des propos acerbes à la presse contre certains danseurs
Telperion訳:
特定のダンサーたちに反対する、マスコミに向けた手厳しい言葉があり

つまりデュポン評はヌレエフのダンサー批判の具体例。このことを念頭に置いてデュポン評を見ると、なるほど「口論した」とか「表面的」とか、穏やかでない。「踊りか他のことのスターになるでしょう」という締めの言葉は、「彼は確かにスターの素質がありますよ、しかしダンサーとしてはどんなものやら」という不信の表れなのだ。

唯一、最初の文"Patrick Dupond est hyperdoué."(新倉真由美の訳は「パトリック・デュポンは群を抜いて優秀なダンサーです」)は褒め言葉かも知れない(hyperdouéは仏和辞書で見つからず、断言はできないが)。しかし他の文のことを考えると、最初の文は「才能は認める、しかし~」という譲歩に過ぎず、ヌレエフが本当に言いたいことではないのだろう。

Meyer-Stableyが明記した「ダンサーに反対する言葉」を消し去った上での「バレエ以外でもスターになる」という訳は、私には不注意でなく意図的に見える。

新倉真由美の文の不自然な点 - 前後とまるでつながらない

訳本では、デュポン評の前後はこうなっている。

  • 直前の文は「任命された最初のダンサーがシルヴィー・ギエムだった」。エトワール任命とヌレエフのかかわりについて述べた段落の最後の文。
  • 直後の文は「そしてついに一九八六年春ベジャール―ヌレエフ事件が起きた」。ベジャールがエリック・ヴュ=アンとマニュエル・ルグリをエトワールに任命した事件の説明の始まり。

この2つの段落に挟まれ、何の説明もなく唐突に「デュポンは優秀です」。その違和感は半端ではない。「前後とのつながりがわからない、脈絡がない」という感想は、「事実と違う」や「論理的に破たんしている」に比べると主観的であり、私にとっては説明が難しいもの。しかしこの部分は、私には「他の人は違和感なしに読めるかも知れない」と思えないくらい、前後どちらの段落とも無関係。

更新履歴

2016/5/5
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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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