伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

ローレンス・オリヴィエ夫妻がエージェント扱い

『ヌレエフ』P.158:
夫が俳優だったため、Olivier夫妻とPRエージェントを設立。
Meyer-Stabley原本:
comme son mari est acteur, elle est devenue agent de publicité (travaillant même avec lord et lady Olivier).
Telperion訳:
夫が俳優なので広告代理業者になった(オリヴィエ卿夫妻とすら仕事をした)。

1950年代にイギリスに移住し(引用部分の直前の文より)、1960年代にヌレエフのアシスタントを務めたジョアン・スリング(Joan Thring)の経歴。原本の「広告代理業者(agent de publicité)になった」は必ずしも起業とは限らず、広告代理店に雇われた可能性も十分にある。しかし私にとってそれより気になるのは、新倉真由美が言うOlivier夫妻、Meyer-Stableyが言う"lord et lady Olivier"(オリヴィエ卿夫妻)。

原文からオリヴィエ卿夫妻について推測

フランス語のetを英語のandに直した"lord and lady Olivier"を見ればピンと来る人は多いのではないかと思うが、念のため、原文から分かること、推測できることを列挙してみる。

  • 貴族の一員である。
  • 1950年代以降に活動している。
  • ジョアン・スリングは興行界を主な仕事場にしたと思われる(引用部分の直後の文では、キーロフ・バレエのロンドンツアーの広報も務めたとある)。彼女と仕事をしているオリヴィエ卿夫妻も、興行界につながりがあることが考えられる。
  • スリングと仕事をしているというくだりで、原文ではmême(~すら、まさに)という副詞が使われている。オリヴィエ卿夫妻が無名の人物なら、名前を出すときこのような言葉を使う必要はなさそう。Olivier卿夫妻は名前を強調するに足る大物かも知れない。

これらを考え合わせると、オリヴィエ卿夫妻とは俳優のローレンス・オリヴィエとヴィヴィアン・リーではないかという推測が浮かんでくる。

Olivier=ローレンス・オリヴィエ説の補強

現在はいろいろなことが昔よりはるかに手軽にWebサイトで検索できる時代なので、ためしに検索してみると、この推測と符合する記述がいくつか見つかった。推測が正しい可能性はかなり高いと私は考える。

  • 2007年7月7日のDaily Express紙に載ったヴィヴィアン・リーの特集記事に、"her friend Joan Thring"(友人ジョアン・スリング)という記載があるそう(記事の転載)。
  • イギリスのTVドキュメンタリー・シリーズ「Living Famously」のヴィヴィアン・リーの回(2003年放送)で、出演者のなかにJoan Thringという名が挙がっている。
  • ジョアン・スリングの夫はフランク・スリング(Frank Thring)。『Nureyev: His Life』(Diane Solway著)や英wikipediaのフランク・スリングの項に記載がある。この人物はMeyer-Stableyの記述どおり俳優であり、1955年のロイヤル・シェイクスピア劇場上演『タイタス・アンドロニクス』でローレンス・オリヴィエやヴィヴィアン・リーと共演している。

ただし厳密に言うと、ローレンス・オリヴィエはlordと呼ばれる身分になったとき、すでにヴィヴィアン・リーの次の妻と再婚していた。Meyer-Stableyがsirと書くべきところをlordと書いたのか、それともオリヴィエの再婚後にジョアン・スリングとのつながりができたのかは、私には判断できない。

原文の情報を書き換えた新倉真由美

ヌレエフの伝記でジョアン・スリングについてそこまで調べるのが必要とは思わない(私はコストやスケジュールを度外視できる部外者なのでやってみたが)。"lord et lady Olivier"を見ても何も気づかなくても、仕方ないかも知れない。しかし、新倉真由美が「オリヴィエ卿夫妻は貴族」という情報を消した一方、「ジョアン・スリングとともにPRエージェントを設立」という原文にないことを書いたことは見過ごせない。その結果、訳本からローレンス・オリヴィエとヴィヴィアン・リーを連想するのはほとんど不可能になってしまったのだから。原文をすなおに訳せば何の問題もないのに。

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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