伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

シューズを投げたのは八つ当たりではない

『ヌレエフ』P.87:
そして白い胸飾りをつけ舞台袖にいた男性の方をめがけてバレエシューズを投げつけた。
Meyer-Stabley原本:
après quoi, dans les coulisses, il lance son chausson dans la direction de l'homme au plastron blanc.
Telperion訳:
その後舞台袖で、白い胸当てをした男性の方向にシューズを投げつけた。

ヌレエフが指揮者のテンポに腹を立て、「ラ・バヤデール」公演中に自分のヴァリアシオンを中断した後のこと。

舞台袖にいたのはヌレエフ

原文の"dans les coulisses"(舞台袖で)は、その後に続く文"il lance son chausson dans la direction de l'homme au plastron blanc"(彼は白い胸当てをした男性の方向にシューズを投げた)全体を修飾する。つまり、舞台袖にいたのは文の主語であるil(彼)、ヌレエフ。その前に「ヌレエフは舞台袖に引っ込んだ」とは書かれていないが、シューズを投げるくらい怒っていたヌレエフなら、そうすることが不自然ではない。

舞台袖にいたのが白い胸当てをした男性なら、"dans les coulisses"が"l'homme au plastron blanc"(白い胸当てをした男性)のはるか前に書かれるはずがない。直後に続くのが自然。

シューズを投げられたのは指揮者

シューズを投げられた男性には原文で定冠詞leが(縮約形l'の形で)ついているので、このときだけ書かれる無名の男性ではなく、特定された男性。この文脈で読者に既知の男性とは指揮者。指揮者に腹を立てたからそちらにシューズを投げる。短気な行為ではあるが、怒りの対象に向かって怒りをぶつけるという点では正当。

新倉本では、シューズを投げられたのは舞台袖にいる男性なので、オーケストラ・ピットにいる指揮者ではありえない。何ら落ち度のない人間が八つ当たりされたような言い方。

おまけ - 他の伝記の記述

キーロフ・バレエのパリ公演でヌレエフが指揮者と対立して取った行動については、私が頼っているヌレエフの伝記2冊にも書いてある。かいつまんで列挙してみる。

Diane Solway著『Nureyev: His Life』ペーパーバックP.147、ピエール・ラコット談
  • 『ラ・バヤデール』の公演中に舞台を出て行き、数分後に戻った
  • それ以前のリハーサル中にシューズを脱ぎ、威嚇的な動作をした
Julie Kavanagh著『Nureyev: The Life』ペーパーバックP.121、批評家ルネ・シルヴァン(René Sirvin)談
「ドレスリハーサルのとき、指揮者が違うバレエのふしを挿入したか、気に入るテンポで演奏しなかったせいかのせいで、ヌレエフがオーケストラを止めて指揮者に罵声を浴びせた」
同書ペーパーバックP.126、ピエール・ラコット談
「『白鳥の湖』の第3幕のヴァリアシオンで転んだヌレエフが舞台を出て行き、だいぶ経ってから戻った」

公演名が違っていたり(それとも2回も舞台から出て行ったのか?)、シューズを投げたという文は見当たらなかったりする。しかし、ヌレエフが本番中に舞台を飛び出したことや、指揮者といざこざがあったことは事実らしい。

更新履歴

2014/2/3
新倉本でヌレエフが落ち度のない人間に当たったように見えることに触れる
2016/5/8
諸見出し変更

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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