伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

フランシーヌ・ランスロ振付作品は新作

『ヌレエフ』P.266-8:
さらに遥か以前のランシーヌ(原文ママ)・ランスロー振付作品、バッハ組曲、バプティストの恭しいステップ、ルイ一四世の宮廷での舞踏会などのフランスのバロック様式のバレエに再び生命を与えた。
Meyer-Stabley原本:
et redonne vie au ballet baroque français (bien avant le succès d'Atys) avec Bach Suite, Quelques Pas graves de Baptiste et Bal à la cour de Louis XIV, dans des chorégraphies de Francine Lancelot.
Telperion訳:
フランシーヌ・ランスロ振付の「バッハ組曲」、「バプティストの荘重なステップ」、および「ルイ14世の宮廷での舞踏会」で、フランスのバロック・バレエに再び生命を与えた(「アティス」の成功よりずっと前)。

ヌレエフがパリ・オペラ座バレエの監督時代に上演したさまざまな作品のひとつ。

ランスロ作品は名を挙げられている

原文では「バッハ組曲」など3つの作品名が挙げられた後、"dans des chorégraphies de Francine Lancelot"(フランシーヌ・ランスロの振付で)とある。つまり3作品を振付けたのはランスロ。「バッハ組曲」などが一般名詞でなく作品名なのは、原文でイタリック表記であることから分かる。

一方、新倉真由美の訳では「ランスロー振付作品」と「バッハ組曲」などの3作品が単に並んでいるので、すべて別な作品に見える。

ランスロ作品は遥か以前ではない

原文にはバロック・バレエの上演について、"bien avant le succès d'Atys"(「アティス」の成功よりずっと前に)と述べている。新倉真由美はこのうち"bien avant"(~よりずっと前)にだけ、「遥か以前の」という訳語を当て、ランスロ作品に付く形容詞のように訳した。純粋に仏文和訳の観点だけで見ても、この解釈は無理すぎる。

  • "bien avant"は副詞bien(とても)に修飾された前置詞avant(~より前の)。前置詞は形容詞ではないので、単独で「以前の」という意味にはなりえない。
  • "bien avant le succès d'Atys"は"redonne vie au ballet baroque français"(フランスのバロック・バレエに再び命を与えた)の後にあるので、この文に関するものだと推測できる。一方、"des chorégraphies de Francine Lancelot"(フランシーヌ・ランスロの振付)はアティス云々の語句よりずっと後にあるので、関係は薄い。

訳本巻末から分かるランスロ作品の誕生時期

「遥か以前のランスロー作品」が仏文和訳として間違っているだけでなく、現実ともかけはなれていることは、この『ヌレエフ』の巻末リストを読むだけでも分かる。そこではランスロ作品は次のように書かれている。

バッハ組曲
「ヌレエフの演出・振付作品」リスト、1984年の行に、「バッハ組曲 フランシヌ・ランスロと共に振付」が載っている。つまり「バッハ組曲」はヌレエフとランスロの共同振付。
バプティストの荘重なステップ
「ヌレエフがパリ・オペラ座バレエ団に招聘した振付家」リスト、1984-1985シーズンに、フランシヌ・ランスロ「バプティストの重々しい数歩」が載っている。これらが同じものなのは、原本を見れば明らか。
ルイ14世の宮廷での舞踏会
「ヌレエフがパリ・オペラ座バレエ団に招聘した振付家」リスト、1986-1987シーズンに、フランシヌ・ランスロ「ルイ14世宮庭の舞踏会」(原文ママ)が載っている。これらが同じものなのは、原本を見れば明らか。

そして、「バプティスト」と「舞踏会」には「ワールドプレミア」との記載がある。原文は"création mondiale"(世界初演)で、過去によそで上演されたことがない完全な新作という意味。

確かにランスロ作品はフランスのバロック・バレエに再び命を与えた。しかしランスロ作品はバロック・バレエそのものではなく、バロック・バレエの研究をもとに生まれた新作。

「アティス」の成功より前とは

「アティス」の成功とは、1987年にリュリの歌劇「アティス」の復元上演にランスロが参加したことを指す。ルドルフ・ヌレエフ財団サイトの「バッハ組曲」説明ページ(音楽が鳴るので注意)に記載がある。

ランスロ作品が上演されたのは、「アティス」の上演よりせいぜい数年前。「ずっと前」とは大げさだが、「アティス」で知名度が上がる前のランスロを抜擢したということを強調したいのだろう。

更新履歴

2014/1/28
説明を大幅に追記

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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