伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

狂気を競ったヌレエフとエリザベット・クーパー

『ヌレエフ』P.208:
その狂気じみた仕打ちで、ピアニストは相手が自分より遥かに強いと悟ったのだった。
Meyer-Stabley原本:
Malgré son petit grain de folie, la pianiste avait trouvé un adversaire plus fort qu'elle.
Telperion訳:
自分自身が少し常軌を逸しているにもかかわらず、ピアニストは自分より強い競争相手に遭遇したのだった。

ピアニストのエリザベット・クーパーがヌレエフの八つ当たりでクローゼットに押し込まれたエピソードの締めの文。

解釈する上で明らかにするべき点

原文の直訳は、「彼/彼女の少しばかりの狂気にもかかわらず、ピアニストは自分より強い競争相手に出会ったのだった」。これを解釈する上で、いくつかの難しい点がある。

  1. 「少しばかりの狂気」があるのは、ヌレエフとクーパーのどちらか?
  2. 「~にもかかわらず」という前置詞malgréがなぜ使われているのか?
  3. 二人は何を競っての競争相手なのか?

第3点についてもう少し書く。ヌレエフがクーパーより肉体的にも社会的にも強いのは、クーパーがクローゼットに閉じ込められる前からあまりに明らか。閉じ込められて初めて相手の強さを思い知ることが、何か他にありそうな気がする。

第1点の答えがヌレエフの場合

「ヌレエフは少しばかり狂気じみているにもかかわらず」が「クーパーは自分より強い競争相手に会った」につながるには、「ヌレエフは少し狂気じみているのだから弱いはず」という前提が必要になる。しかしこの前提を満たす第3点の答え、つまり二人が何の強さを競っているのかが、私には思い浮かばない。狂気じみた人間は弱いというのは一般的なイメージではなく、肉体的には正常な人間よりはるかに強いというイメージの方が一般的なように思う。

第1点の答えがクーパーの場合

「クーパーは少しばかり狂気じみているにもかかわらず」が「クーパーは自分より強い競争相手に会った」につながるには、「クーパーは少し狂気じみているのだから強いはず」という前提が必要になる。そこで、クーパーとヌレエフが強さを競っているのは狂気の度合いだという推測が思いつく。「クーパーは少し常軌を逸しているが、ヌレエフはもっと常軌を逸していた」という解釈なら、第2点と第3点を無理なく説明できる。

この説の弱みは、ほんとうにクーパーが少し変なのかは、フランスの雑誌か何かを読まないと判定できないということ。しかし、原本の中にこの解釈と矛盾する点は見当たらない。

不都合な語句を消す新倉真由美

最初に挙げた3点を解決するために新倉真由美が取った手段は、malgréを「~のせいで」と読み替えることだった。これはmalgréの意味としてありえない。

「しかし」とか「にもかかわらず」とかいう逆接の言葉を消すのは、その言葉の前後にある語句の関係を真っ向から破壊する行為。新倉真由美は実にお気軽に「しかし」やその類語を消したり足したりするが、そのたびに文の意味が大きくねじ曲がる。短所として述べられたことが長所に化けたり、反論が賛同になったり。私自身、この記事で何度か「しかし」と書いているか、それを省略したり、「そして」や「だから」に変えたりしたら、どんなに読みにくい文になることか。だから私は新倉真由美の流儀を認めない。

更新履歴

2014/6/19
  • 第3点についての説明を前のほうに移す
  • 最後の小見出しの後を加筆

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

プロフィール

Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

カテゴリ
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
タグ

マーゴ・フォンテーン エリック・ブルーン ノートルダム・ド・パリ パトリック・デュポン マリア・トールチーフ ミック・ジャガー 

全記事表示リンク

全ての記事を表示する