伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

モニク・ヴァン・ヴーレンがヌレエフに及ぼした影響

『ヌレエフ』P.188:
ヌレエフの貴重なベルギー人の旧友、フラマンドで生まれ、有名なアート商の娘でフィギュア・スケーターだった。ヌレエフはニューヨークで住居を所有するまで、彼女の家に宿泊していた。彼は常軌を逸し無軌道で極端に奇抜な世界、また愛や羨望や邪悪な打算や自堕落によって引き裂かれた世界に身を置き、威厳に満ちた風貌の影にあらゆる快楽への激しい欲望を隠していた。彼女は虚構の中にいたダンサーの性格に変化を及ぼした。
Meyer-Stabley原本:
Cette ancienne prodige belge du patinage artistique d'origine flamande, fille d'un célèbre marchand d'art (Noureev descendait chez elle à New York avant de posséder son propre appartement), transposa le personnage du danseur dans un roman qui reconstituait un univers baroque outrancier de frasques et de folies, un univers déchiré par les amours, les convoitises, les calculs pervers, les déchéances aussi. Un univers qui, derrière une apparente respectabilité, cachait une recherche effrénée des plaisirs. De tous les plaisirs.
Telperion訳:
かつてフィギュアスケートの天才だったこのベルギー人は、フランドル出身で高名な美術商の娘である (ヌレエフはニューヨークで自身のアパルトマンを持つ前、彼女の家に泊まっていた)。彼女は突飛な行いと無分別な言動の行き過ぎて奇抜な世界を再構築した小説にダンサーの人物を移し替えた。恋愛、渇望、よこしまな打算、また失墜に引き裂かれていた世界である。見かけの体面の背後に、快楽の自由気ままな探求を隠していた世界。すべての快楽。

ヌレエフの友人モニク・ヴァン・ヴーレンの説明。

「貴重な旧友」でなく「かつての天才」

第1文の述語transposaより前はすべて主語部分であり、モニク・ヴァン・ヴーレンの詳しい説明になっている。

「貴重な友」でなく「天才」

prodigeは「驚くべきこと、非凡な人物」。"du patinage artistique"(フィギュア・スケートの)が付いているので、スケーターとして優れていたという意味だろう。原本と訳本を照合する限り、新倉真由美はprodigeを「貴重な友」と訳したようだが、これはprodigeの訳語としては無理がある。

「旧い」でなく「かつての」

形容詞ancienは、名詞の前と後で意味が変わる。

  • 名詞の前にある場合、「かつての」という意味が多い
  • 名詞の後にある場合、「古くからの」という意味が多い

ここでのancienは名詞prodigeの前にある。実際、ヴァン・ヴーレンは女優の経歴がメジャーなので、フィギュア・スケーター歴はわずかと思われる。

奔放な世界にヌレエフを引き入れたのはヴァン・ヴーレン

第1文の述部は"transposa le personnage du danseur dans un roman"。最後の"un roman"(小説)はたくさんの言葉で修飾されているが、分かりやすさのためにここでは省く。

動詞transposerには「何かを別の場所に移し替える」という意味がある。Meyer-Stableyは後でヌレエフ振付「シンデレラ」を説明するときも、"transposer A dans B"(AをBに移し替える)という表現を使っている(「三日月クラシック」の記事より「P.263 ヌレエフはパリで~」の項を参照)。

移動する主体
第1文の主語であるモニク・ヴァン・ヴーレン
移動させられる対象
transposerの目的語である"le personnage du danseur"(ダンサーの人物)
移動先である場所
"dans un roman"(小説の中に)

つまり、ヴァン・ヴーレンは小説さながらの世界にヌレエフを引き入れた。実際、ヴァン・ヴーレンについて調べてみると、彼女自身がもともとそんな世界の住人のように見える。

ヌレエフが移住した世界がヌレエフ自身のことに

ヌレエフの人物が移り住んだ小説が再構築する世界を、Meyer-Stableyは第1文で2種類の"un univers ~"という言い方で描写する。そして、原文の第2文でも同じ言い方で世界について説明する。ところが新倉真由美は、第2文を世界でなくヌレエフの説明にした。先頭の"Un univers"(世界)に続く部分を2つに分けて論じる。

qui cachait une recherche effrénée des plaisirs (快楽への抑制なき探究を隠していた)

関係代名詞quiで始まる関係節なので、「隠していた」の主語は先行詞である"Un univers"(世界)。

derrière une apparente respectabilité (見かけの対面の背後に)

女性名詞respectabilité(尊厳、体面)を形容詞apparent(目に見える、見かけの)が修飾している。しかし新倉真由美は、apparentを名詞、respectabilitéを形容詞として扱ったばかりか、「威厳に満ちた風貌」という、世界の描写とはとても思えない言葉を当てている。

モニク・ヴァン・ヴーレンについて

モニク・ヴァン・ヴーレンはベルギーの女優。日本で公開された映画の一覧がMovie Walkerに載っている。写真を見る限り、派手なグラマー美人。『Nureyev: His Life』(Diane Solway著)にある人物評を引用する。

the kind of character that exists only in Fellini movies: hyper-sophisticated, hyper-dramatic, hyper-hysterical
(フェリーニの映画にしかいないタイプの人物だ。無茶苦茶に洗練され、無茶苦茶にドラマチック、無茶苦茶にヒステリック)

新倉真由美の文を読むと、ヴァン・ヴーレンは乱脈な暮らしをしていたヌレエフの性格を変化させたということなので、ヌレエフをまともな性格に引き戻したような印象を与える。しかし実際のヴァン・ヴーレンがそんなしおらしいことをできたようには見えない。

更新履歴

2014/6/8
問題点を出現順に並び替えたのを初め、大幅に書き換え

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

プロフィール

Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

カテゴリ
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
タグ

マーゴ・フォンテーン エリック・ブルーン ノートルダム・ド・パリ パトリック・デュポン マリア・トールチーフ ミック・ジャガー 

全記事表示リンク

全ての記事を表示する