伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

ポール・ヴァレリーの文は追悼ではない

『ヌレエフ』巻頭:
彼は、我々が漠然と持っている尊厳を受け容れ、自己の中に積極的に構築していった。
彼はエスプリに富んだ足取りで、この憔悴しきった愚かな地球上から消え去っていったように見えた。
そして想像し得ない世界に足を踏み入れ、傑出した人物たちの一員になった。
Meyer-Stabley原本:
Il assemble sur soi, il assume une majesté qui était confuse dans nous tous... Il semble, de ses pas pleins d'esprit, effacer de la terre toute fatigue, et toute sottise... Il entre dans l'exception et pénètre dans ce qui n'est pas possible.
清水徹訳:
わたしたちすべてのなかに漠然とあ(り、この饗宴の参加者たちのなかにほとんど感知しえぬほどのありようで棲みついてい)る威厳を、みずからの上に集め、引き受けている…精気あふれるその足どりで、大地から、あらゆる疲労、あらゆる愚劣を消し去るかのようだ…異例な域へと踏み込み、可能ならざるもののなかへと突き進んでゆくぞ!… (ポール・ヴァレリー著、岩波文庫『エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話』より)

巻頭に掲げられた引用であり、筆者はポール・ヴァレリーとある。

文法解釈の誤り

"effacer A de B"は「BからAを消す」。

  • Aに当たるのは"toute fatigue, et toute sottise"(すべての疲れ、そしてすべての愚かさ)
  • Bに当たるのは"la terre"(地上)

原文ではAと"de B"の順序が逆だが、この倒置は文法的に可能。fatigue(疲れ)やsottise(愚かさ)は名詞であり、"la terre"を修飾する形容詞ではない。消えるのは「彼」ではなく、この疲れや愚かさ。

ヴァレリーの文の意味

原文の出典は"L'Âme et la Danse"(魂と舞踏)。3か所からの寄せ集めで、いずれも類まれな舞姫を称えている。Meyer-Stableyは女性の舞姫を男性のヌレエフに書き換えるために、代名詞をelle(彼女)からil(彼)に変更している。ヌレエフが世に出る前に死去したヴァレリーの文をMeyer-Stableyが引用したのはもちろん、強烈な光を放つダンサー、ヌレエフに捧げるため。

文豪ヴァレリーの作品を私が訳すのはおこがましいので、今回は邦訳本から該当部分を引用した(括弧内はMeyer-Stableyが省略した個所)。原文を素直になぞった翻訳で、独自の言い換えと呼べるのはexception(例外)を「異例な域」としたことくらい。

更新履歴

2014/3/6
仏文の解説を少し増やす

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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