伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

ヌレエフが生まれた年のソ連

『ヌレエフ』P.13-14:
しかし奇跡は起きなかった。一九二九年から四〇年間、農民の重労働により工業生産を四倍に伸ばしたソヴィエト連邦は、三八年には工業生産世界第三位の大国となった。
Meyer-Stabley原本:
L'époque n'a pourtant rien de miraculeux. Certes, la production industrielle multipliée par quatre entre 1929 et 1940 a fait de l'Union soviétique de 1938 la troisième puissance industrielle mondiale. Mais cette croissance a été réalisée au prix d'un lourd bilan humain, en particulier dans les campagnes.
Telperion訳:
しかしその時代に奇跡的なことは何もなかった。もちろん、1929年から1940年までの間に工業生産量が4倍になった結果、1938年のソビエト連邦は工業力が世界第3位になった。 しかしこの成長はとくに農村における甚大な人的被害とひきかえに達成された。

ヌレエフが生まれた1938年当時のソ連の説明。

長すぎる期間

"entre 1929 et 1940"は「1929年と1940年の間の」なので、1929年から40年間でなく11年間。

実際、1929年から40年間、つまり1969年まででは、第二次世界大戦やら冷戦やらで情勢が激変しすぎてひとまとめに語りにくい。それにヌレエフが生まれた当時の説明という目的にも沿わない。

Meyer-Stableyによる批判的な描写

原文の"certes A, mais B"とは、「なるほどAではあるが、Bである」という譲歩の構文。Bに反するように見えるAという事柄を認めつつ、実際にはBを主張したい場合に使われる。

  • Aに当たるのは、maisの前にある「ソ連は短期間で工業大国になっていた」
  • Bに当たるのは、maisの後にある「ソ連の発展は甚大な人的被害と引き換えだった」

話し手Meyer-Stableyが真に言いたいのは、ソ連の国力増強の影で多くの国民が犠牲になったということ。実際、Meyer-Stableyは引用部分の後で、スターリン体制でいかに多くの人間が粛清または追放されたかをこまごまと書いている。訳本ではかなりカットされたが。

最初の文「しかし奇跡的なことは何もなかった」は、ヌレエフの(恐らく)自伝からの引用で、訳本ではカットされた文「両親にとって革命は奇跡だった」を受けている。Meyer-Stableyは皮肉を込めて、「たとえヌレエフの両親に革命が奇跡のように見えたとしても、その後のソ連の発展は奇跡でなく、多大な犠牲によるものだ」と語っている。

新倉真由美によるポジティブな描写

「しかし奇跡は起こらなかった」の次の文は、新倉真由美の訳文だとこうなっている。このため、明るい印象が勝っている。

  • Meyer-Stableyがしぶしぶ認める「ソ連はたちまち大国になった」の部分がしっかり訳された
  • Meyer-Stableyが実例を挙げてじっくり説明しようとしている「多くの犠牲が出た」の部分は、「農民の重労働により」という一言に過ぎない

おかげで、私は訳本を読んだばかりのころ、「ソ連がぐんぐん大国になったのなら、奇跡と呼んでもいいのでは?」と戸惑ってしまった。その後で結局は粛清が描写されるとはいえ、訳本の第2文は、存在しないほうが混乱しない邪魔な文になり下がっていると思う。

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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