伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

ユーリ・ソロヴィエフがKGBに強要されたこと

『ヌレエフ』P.108:
しかしこれはKGBに強いられ、ソロヴィエフが言わされた虚偽の発言だった。彼らはルドルフの一件を急いで処理しようと、のっぴきならない危険な話を探していた。しかし何も見つからず、しまいにパートナーの口の軽さを利用して告白させたのだ。
Meyer-Stabley原本:
La vérité est que Soloviev fut bel et bien obligé par les hommes du KGB de fouiller les affaires de Rudolf pendant son absence pour tenter d'y découvrir quelque chose de compromettant. Mais il ne trouva rien à utiliser contre lui et finit par avouer son indiscrétion à son partenaire.
Telperion訳:
本当は、ソロヴィエフはルドルフの不在の間にその所持品を探し、立場を危うくするものを発見することを試みるよう、KGBの人間にまさしく強制されたのだ。しかし不利になるよう使えるものは何一つ見つからず、ついに彼は無遠慮な行動をパートナーに告白した。

キーロフ・バレエのツアーでヌレエフと同室だったユーリ・ソロヴィエフと、ヌレエフを警戒していたKGB。

KGBがソロヴィエフに強いたこと

  • ソロヴィエフがKGBの人間に強いられたのは、"fouiller les affaires de Rudolf pendant son absence"(ルドルフの所持品を彼の不在中に探す)。affaireには「ものごと、事件」などいろいろな意味があるが、不在中に探す対象なのだから、ここでは「所持品」が最適。
  • KGBがソロヴィエフに所持品漁りをさせた目的は、"pour tenter d'y découvrir quelque chose de compromettant"(立場を危うくするものをそこで見つけようと試みるために)。見つけるために所持品を探すのだから、見つけようとしているのはもの。

新倉真由美が原文のどこから「言わされた虚偽の発言」や「急いで処理する」を連想したのかは想像がつかない。「一件」はaffaireの意味の1つ「事件」からの連想なのだろうが。

告白は強制ではない

"finit par ~"(ついに~する)の主語は、その前の"ne trouva rien"(何も見つけなかった)の主語と同じくil(彼)。次の理由からソロヴィエフだと分かる。

  • 実際に探したのはソロヴィエフなのだから、見つけなかったのもソロヴィエフ。
  • KGBの人間は先ほど"les hommes du KGB"という複数形で呼ばれた。いきなり単数扱いになっては不自然。

「告白させた」という使役文の要素は原文にはない。この告白はソロヴィエフの自発的意思によると考えられる。

告白の内容

ソロヴィエフが告白したのは"son indiscrétion"(彼のindiscrétion)。indiscrétionには大きく分けて2つの意味がある。それぞれの場合のもっともらしさを比較してみる。

口の軽さ
この場合、KGBに強制された所持品漁りが不首尾に終わったことと、ソロヴィエフが自分の口の軽さを告白することの間にどんな関係があるのか、さっぱり推測できない。
無遠慮
この場合、「彼の無遠慮」とはソロヴィエフがヌレエフの持ち物を漁ったことだろう。探し続ける間に良心がとがめて告白したくなるのは理解できる。こちらが妥当だろう。

パートナーの役割と素性

"à son partenaire"(彼のパートナーに)は告白された相手を指す。文脈によっては「彼のパートナーの」という意味で直前の名詞を修飾することもあるが、この場合は直前の名詞にもうson(彼の)とあるため、さらに「彼のパートナーの」がつながっては意味をなさない。

ソロヴィエフに告白されたパートナーは、バレエでのパートナーを指しているかも知れない。しかしこの次の文でヌレエフが触れられており、そのヌレエフはソロヴィエフの行為を知っているらしいことから、ここでのパートナーとは相部屋だったヌレエフを指していると私は思う。

前置詞contreは「~に対し」?「~に反対して」?

引用部分の次の文はこれ。

Meyer-Stabley原本:
Noureev ne prononcera jamais une parole contre Soloviev.
訳本:
ヌレエフはソロヴィエフに対し一言も発しなかった。

前置詞contreには「~に対して」という意味があるので、新倉真由美の訳が間違いとは言えない。ただ、contreには「~に対抗して、~に逆らって」という意味もあり、私が訳すならそちらの意味を取り入れ、「ヌレエフはソロヴィエフを責める言葉を決して口にしなかった。」にする。そのほうが自分のしたことを告白したソロヴィエフも報われるという感傷ゆえなので、こちらのほうが理にかなうとまでは思わない。しかし、前置詞一つの解釈で文の印象が大幅に変わるというのが興味深いので、参考までに書いてみた。

2014/2/16
大幅に書き換え

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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